Scripture: Genesis 18:20-32
Psalm 138
Luke 11:1-13
Is our prayer to God too polite?! Are we bold enough? Do we dare enough?
私たちの神への祈りは、時として丁寧すぎないでしょうか。私たちは充分大胆でしょうか。あえて、普段言えないことも神に対して祈っているでしょうか?
弟子たちはイエスに問いました。「主よ、祈りの方法をお教えください。」 その祈りの中で、イエスは最初の言葉がカギであると教えてくれました。 それは全ての祈りの基礎であり、始まりでもある、神と私たちの関係をあらわしています。祈りとは、言葉よりむしろ、優しく、慈愛に満ちた神(アッバ)とそれを神として頼む子供たちとの間の交流なのです。
もし言葉のみに集中してしまうのであれば、私たちの祈りは味わいの無いものとなってしまいます。
Scripture: Genesis 18:1-10
Revelation 3:20
Luke 10:38-42
Last Sunday we read the Good Samaritan parable. The message was: prayer is not enough, we also need love of neighbor in action. Today we have an "action" parable and its message is : love of neighbour is not enough, we also need prayer. Note the balance of action and prayer.
先週の日曜日は私たちは善きサマリア人の例え話を読みました。そのメッセージは祈りだけでは不十分であり、わ私たちは隣人愛の実行も必要である、ということでした。今日の聖書では、「行動」の例え話が示されています。そしてそのメッセージは、隣人愛だけでは不十分で、祈りも必要である、ということです。愛の実践と祈りのバランスが大事であることに注意しましょう。
Scripture: Luke 10:25-37
We have heard the story of the Good Samaritan so often that maybe the ears of our heart have become dulled or even deaf to its important message.
善きサマリア人のお話は何回も耳にし過ぎて食傷気味になってしまって、肝心の大切なメッセージに鈍感になったり聞こえなくなっているかもしれません。
エルサレムからエリコへの道は寂しい山道でした。ある日、強盗がユダヤ人を襲い、すべてを奪い半殺しにして放置して去って行きました。道端に、傷だらけになって血を流して倒れている姿を想像してください。そこへ最初は祭司が、そして次に神殿奉仕者がやって来て、倒れている同胞に目をやりましたが、しかし、わざと道の反対側を通って立ち去ったのです。その後に、ユダヤ人に軽蔑されていたサマリア人が通りかかりました。彼はこの傷ついた人を見て同情で心が一杯になりました。彼はロバから降りて彼を乗せ、傷口を洗い塗り薬の手当てをしました。通りかかった最初の二人は、積極的には何もとりたてて悪いことをしていません。しかし、彼らは善行をしないという、不作為の罪を犯したのです。
Scripture:Isaiah 66:10-14
Luke 10:1-9
イエスがお生まれになった夜のメッセージは「平和」でした。
イエスはザアカイに、ペトロに、そしてその他の多くに人々に平和を与えました。イエスは、「あなたの罪は赦された。平和のうちに行きなさい」と言っています。最後の晩餐ではイエスは「私の平和をあなたがたに与える...私が与えるのは、世が与えるものとは異なる」と言っています。また、「平和のために働くものは幸いである。彼らは神の子である。」とも言っています。そして、ご復活後は、「主の平和」が定番の祈りの際の挨拶です。。
今日の福音では、イエスは72人の使徒たちに平和の賜物をあたえ、送り出しています。この時、「この家に平和があるように」という言葉を最初に言うように、と指示しています。
今日読まれた福音書の冒頭で、イエスはガリラヤからエルサレムへの旅に出発します。この部分は「旅のテーマ」と言われ、人生の旅路を象徴しています。しかし、これは単なる象徴以上のものなのです!イエスは、今日も我々とともに生きていて、私たちの人生の旅路において、同伴者となってくださるのです。
私たちの神は真に憐れみに満ちた神です。私たちの神イエスは私たちと同じ人間となりました。私たちの神は、実際に、我々人間の弱さを経験したのです。
今日の福音書で、イエスはサマリアの村人たちから屈辱され村から追い出されています。イエスの二人の弟子は、雷が落ちて村人たちが消え去ってしまえばいいと思いました。しかし私たちの神は、昔も今も、懲罰的な神ではないのです。
私たちも、人生の旅路の中で、孤独になり屈辱や拒絶に苦しみます。冷淡に扱われ、深い心の傷を負うのです。こうした時に、同じ屈辱や冷淡をその人に返したり、怨恨を抱え込んでいることは、心の傷をいっそう悪化させるだけなのです。私たちは祈りを通じてイエスのところに行き、助けや慰め、相手を赦す勇気を求めることができます。私たちが経験していることと同じことをイエスも経験したので、こうした状況をよく理解してくださいます。