アダム神父様インタビュー(4)

アダム神父様インタビュー(取材・再構成:北川恵)

・今日は素晴らしい天気で、外にいると気持ち良いですね。緊急事態宣言もようやく終わりそうですね。

「本当、長かったね。でも、すぐに元のように戻るということではなく、今みなさんが協力してくれているように、(防疫に配慮した)まったく新しい形で再開するということになるね。」

「今回ミサの『断食』を経験した私たちが、新しい気持ちで、本来の意味を噛みしめて、ミサにあずかれるようになれば、良いですね。」

・まさに「災い転じて福をなす」ということですね。

「そう、『あってあたりまえのもの』が無くなったけれども、かえってそれによって真実に目覚め、生き方が変わる。今日は『主の昇天』を記念する日ですが、そのことと大いに関係があります。今日は、『主の昇天』の意味について考えてみましょう。

・宜しくお願いします。よく聖画に描かれているように、イエス様もマリア様も、最後は天に昇って行きましたね。

「御存じですか、イエス様の昇天とマリア様の昇天は違います。人間としてのイエス様は十字架上で死に、復活したイエス様は100%神様です。ですから天へは自らの意思と力でって行かれました。一方、マリア様はそのような神様の意思と力によって、天にあげられたのです。ですからマリアの昇天は正確には「被昇天」と言われます。」

「マリア様は、『素直な心で神の言葉を受け入れる強い信仰があった』ことから無原罪とされ、人間としての終わりの時も天にあげられました。

一方イエス様は、私たちに『イエスの道』を示しそれに私たちがついてくることを期待して、自らの意思で天に昇られたのです。」

・『イエスの道』を一生をかけてたどることが洗礼の意味であり、途中くじけないようにミサにより力を得たり、聖霊の助けをいただくと前回教えていただきました。

「覚えていたね。そしてその道は決して楽しい道だけではないということも。そして最も重要なことは、それには『信仰』が必要だということです。」

「見て、触ることができるものを、存在していると言うのは、信仰ではありません。」

「しかし見たり、触ったりできないものを信じることは、実際には簡単ではありません。熱心な弟子であったトマスですら「手にくぎの跡を見、そのわき腹に自分の手を入れるのでなければ信じない。」(ヨハネ20-15)と言ったのです。」

「見たり触ったりできる存在として復活なさったイエス様は、弟子たちにその存在を認めさせた後、天に昇ってしまわれました。このことは、イエスと私たちの距離が出来たということではなく、『祈り』と『イエスの道をたどる私たちの生き方』を通して、イエスとつながり続けるようになった、ということです。」

「そして先週お話したとおり、この『つながり』あるいは『きずな』となるものが、神様が送ってくださる『聖霊』なのです。」

「洗礼や堅信といった秘跡を行う際に、香油を額に塗りますが、香りというのはハッキリ知覚できますが、見たり触ったりはできません。聖霊の働きも、そのようなものであることから、香油を塗っているのです。」 

・そんな意味があったのですね。昇天により、イエス様との関わりが目に見えるものから見えないものに変わる、けれども私たちに降臨する聖霊がそれを助けてくれる...。

「そう、見えなくとも感じられるようになるのです。今日の読まれるはずだったエフェソの教会への手紙(エフェソ1-17)でパウロはこう言っています。」

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、

あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

心の目をひらいてくださるように。

そして、神の招きによってどのような希望があたえられているか、

聖なる者たちの受け継ぐものが

どれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

・なるほど、そして心の目が開かれた私たちが、その目が曇らないように、ミサに集まるのですね。」

「その通り。ミサはとても大切だけれども、それそのものが目的ではないよ。目的は私たち全員が、自分すべてを神様と隣人に与えるという、『イエスの道』を歩んでいくこと。」

「習慣に流れて、司祭ひとりがやっている芸を見に来るようなものになっては悲しいですよ()。」

「今回、ミサが長きにわたって無くなり、ご聖体もいただけなくなって、寂しい、苦しい思いをしている信者は多いと思います。私も同じです。」

「だけれども、目に見えるごミサ、触ることのできる聖体が無くなった今、聖霊の力を借りて、祈りと聖書を読むことで信仰がむしろ強まっていく、そのようなことを神様は望んでいるのではないでしょうか。それがまさに主の昇天意味だと思います。」