年間第13主日(6月28日)の説教(テキスト)

皆さんこんにちは。

今日は福音で読まれたマタイ10章の派遣の言葉から、私たちキリスト教徒が毎日どのように生きるべきか、を学びたいと思います。

「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者、わたしにふさわしくない。
「また自分の十字架を担ってわたしに従ない者はわたしにふさわしくない。
「自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失者は、かえってそれを得るであ。」
「あなたがたを受け入れは、わたしを受け入れ、わたしを受け入れは、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」

(マタイ1037-40)

少し厳しい印象を受けますが、これは私たち信徒が社会や家庭とどう向き合うかについて語っています。

これを四つのポイントから理解していきたいと思います。

①神とともにある、ということ

今日第二朗読で読まれたパウロの洗礼についての言葉(ローマ6・3-4)をもう一度ご覧ください。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。れは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

洗礼にあたっては服を脱ぎ、全身を水に沈めます。これは、神と関係ないことは一切捨てて、キリスト共に水に沈み死に、キリストと共に復活し、そして白い衣(キリスト)をまとって新しい人生を生き自分を磨いていく、ということを意味しています。

つまり、人間(父母・息子、娘と表現されています)の価値観に流されず、神の価値観が身につくよう努力することが強調されているのです。

②自分の十字架を担う、ということ

これはわかり易いですが、しかし実際には自分の十字架とは何か、という問題があります。これについては、二つのとらえかたがあります。

ひとつには、ルカ書がいうように、自分にふりかかる試練や心配事など個人的なものです。

もうひとつは、神の価値観を実践することによりあらたに生じる困難であり、究極的には「殉教」といったものも含みます。広い意味では、ローマ時代よりも現在のほうが殉教が多いのではないかと言う人もいます。私たちは視野を広く持たなければなりません。

③エゴイズムと戦う、ということ

私たちは死後という「目に見えない、壁の裏の世界」を、賭け事のように扱ってはなりません。エゴを追求していけば自分自身はどんどん小さくなっていき、「命」は失われてしまいます。キリストと連帯する、つまりマタイ25章でいわれているとおり、「わたしの兄弟である最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにした」であり、「最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかった」であることを思いだしましょう。

④神は報いてくださる、ということ

今日の第一朗読(列王記4章)では人のために苦労し一所懸命に生きている老婦人に対して、神が子宝を授けたという故事が紹介されています。今日の福音の最後にあるように、「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」のです。日常生活ので目を開き、その中で一番小さなものに寄り添う、それが私たちの神の一番喜ばれることなのです。

これらの言葉を糧に私たちはこの一週間、自分を磨き、人を大切に思う心を育てましょう。(要約:北川恵)