年間第14主日(7月5日)の説教(テキスト)

1班の皆さん、そしてネットでご覧いただいている皆さんこんにちは。

班ごとに参加者を絞ってではありますが、このように再び集まってミサをあげられることができ嬉しく思います。ここに至るまで努力された方々すべてに感謝いたします。

今日のミサで読まれたマタイによる福音書は、私たちの神様が私たちに何を望んでいるかを、象徴的に示しています。象徴的に、ということは、その字句どおりでは決してないのであり、少し注意が必要です。

例えば、私たちは「日が昇り、また日が沈む」と当たり前のように言っていますが、同時に実際には太陽は不動であり、地球の方が回っているのでそう見えることを知っています。ではそのような目でみて、今日のイエスの言葉はどのような意味を持っているのでしょうか。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ1125

知恵ある者や賢い者には隠してしまう、そんな意地悪なことを神様はなさるのでしょうか?これは例えば、わたくしのところに「もうわたしは聖書全部読みました。聖書のことはよく知っているので洗礼を受けます」と言ってくる人のようなものです。幼子は自分のことを決して知恵があるとか、賢いと思ってはいません。そのように素直な心と愛をもって隣人に接することを「幼子のような」、と表現しているのでしょう。その反対の意味として、疑いと利己的な打算に満ちた大人は、世俗的な意味で「知恵ある、賢い」と表されているのでしょう。

聖パウロがいうように(Ⅰコリント13章)、「あらゆる奥義と知識とに通じていて、山を移すほどの強い信仰があっても、愛がなければ無に等しい」のです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」(マタイ1128

あまりにも有名な一節です。イエス様の時代も、今も、弱い人が権力・お金・コネを持っている人の犠牲となる、ということがあります。またファリサイ人のように、道徳的に正しいとされている人々も、理屈や形式に流れて、困っている人への愛には乏しい、ということも同じです。

イエス様は、そのようなことを指摘し、実際に困っている人々に寄り添ったために、嫌われたり疎外されたりしました。これは、実際に自分自身も苦しんでみないと、他人の苦しみを本当に理解できないことを、イエス様が身をもって示しているのだと思います。言葉だけではなく、困っている人を気持ちで理解すること、が大切です。

教会でも依存症の方の支援、事故や事件の被害者支援、こども食堂など貧困支援など様々な取組がされています。このような行いをする際にイエス様は常にそばにいて、十字架を共に背負ってくれる、隣に居て励ましてくれるのです。心を開いて、困難・苦しみを隣人とわかちあいましょう。自分の救いだけでなく、仲間、家族、友人とお互いに助けあう、それにより教会というものが真の兄弟姉妹の集まる場となる、それが教会の出発点なのです。