年間第15主日(7月12日)の説教(テキスト)

今日の福音は有名な「種まく人」のたとえ話です(マタイ13・1-23)。

たとえ話ですので、解釈にはいろいろあると思いますが、まず「種をまく人」とは、誰のことでしょうか。

一般的にはイエス様との解釈されますが、わたくしはもう少し広く、イエス様および神様からその「種をまく」という役割を与えられた人だと思います。

それではその「種をまく」ということ、そもそも「種」とは何を意味しているのでしょうか。

その前にこの「種まく人」が種まきのためにわざわざ「出かけて行った」ことに注目しましょう。

つい最近まで私たちはみな家に閉じこもって外出を自粛していました。つらかったですよね。外にでて、よその場所に行く、人にであうことがどんなに大切なことか皆さん身に沁みたと思います。「種まく人」は自分のところに閉じこもっておらず、よその場所に出て行って、いろんな人にであったのです。

そしてこの「種まく人」の種のまき方を見てみましょう。現代の農業では決してありえない、メチャクチャなまき方です。道端、石だらけの土のないところ、イバラの雑草のなか、のべつまくなしに、まきまくっています。貴重な「もみだね」であるはずなのに、あたかも無限にあるようです。この「種」とは本当は何を意味しているのでしょうか。

さきほど「出かける」ということを、「いろんな人に会う」と申しましたが、そうであるならば人に出会ってまくべき種とは、心にまかれるべき「愛情」であり心のこもった「交わり」であるはずです。神からいただく「愛情」や「心の交わり」は無尽蔵であり、わけへだてなくいろいろな人々にまかれることを意味しています。

キリスト者となった私たちには、神様から皮袋一杯の「もみだね」がふんだんに与えられています。そしてイエス様がなさったように、私たちも出かけて行ってさまざまなところにまきまくることが望まれているのです。このように神様は気前よくふんだんに与えて下さっているにも関わらず、私たちはケチであり「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」(マタイ13-10)のであり、イエス様のように出かけて行って「愛情」や「心の交わり」の種をまくことは、なかなかできません。反省して学ぼうとする姿勢が大切であると思います。日々の困難の中、今日はどうしようか、何をしようか、という時には、神様へのお祈りと共に、この聖書の箇所を思い起こしてみましょう。