年間第16主日(7月19日)の説教(テキスト)

今日の福音(マタイ13-24)は麦と毒麦のたとえ話でした。 趣味で畑をやってらっしゃる人であれば、よくお分かりになるとおもいますが、畑で作物を育てるには、雑草や害虫を取り除くための手入れがとても大事です。

人間の集団もこれと同じ面があって、人を育てる教育を行うときに、集団の中で他に悪い影響を与える人がいる場合、その人を集団の中からはずさなければ一人ひとりを育てることはできません。それは家庭の中で、お母さんが果物かごの中の果物に、腐っている物がいないか目を光らせていることにも似ています。このようなやり方、望ましくないものが増えていくのを防ぐために隔離する、というやり方は、まさに「人間のやり方」です。

では神様のやり方はどのようなものでしょうか。 神様のやり方はちょっと違っています。今日話されたイエスのたとえ話では、しもべ達が「毒麦を抜き集めておきましょうか?」と言っても、主人は「いや、毒麦を集めると木、麦まで一緒に抜くかもしれない。毒麦は収穫後に分別する」としてそのままにすることを命じています。これは人間の裁きには完璧さはありえないので、私たちは正邪を安易に裁かず、神様の審判に委ねなさい、悪はおのずとも神様の審判からのがれることはできないのであるから、ということを意味しています。

私たちは人間ですので、小さな問題がおきればすぐに逆上してしまい、恐怖、怠慢、仕返しなどを望む意地悪さなどが頭の中でグルグルまわってしまいます。そしてせかせかと焦り、結果が出ないとすぐにあきらめてしまいます。 神様はこれとは逆で、決してあきらることはありません。希望を持ち続けているのです。

この神様の姿をより理解するために、神様が人となられたイエスの活動の様子を見てみましょう。

・神の神殿の中で商売をしていた人々に対して激怒したイエス

・弟子たちが布教のために派遣される際、「もし拒絶された場合には、靴の埃を落として静かに立ち去り、他所へ向かいなさい」と諭したイエス

・自分を裏切る弟子ユダを決して叱ることはせず、悲しい眼差しで見つめたイエス

イエスの生き方を通して神の姿を見ることができます。私たちはまだまだ神の姿を真に知ってはおらず、知ろうと努力しなければなりません。 今回、数か月におよぶ自粛期間の間、自分自身を見つめられた方々もいらっしゃると思います。ですが、今日の毒麦のたとえ話のように、悪いもの、否定的なものばかりを見つめていては、自分自身が足踏み状態となり、進歩もできなくなってしまいます。

イエスの別の有名な「タラントのたとえ話」を思い出してみてください。主人が旅に出るにあたって、財産を数名の召使いに託すのですが、預かった財産を地中に埋めて何も運用しなかった召使いが叱られるという話です。この意味に沿えば、まず「タネは育てなければならない」のであって、たとえ毒麦があろうとももしかすると良い麦かもしれないので、まずは「一緒に育てなければならない」ということです。そして教会の仲間と協力し、良いものを育てる、悪い所にとらわれず良い所を育てる、という前向きな心持ちになりましょう。

今日読まれた知恵の書(知恵12-18)にあるように、神に愛されていることを自覚し、希望を持って「力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、おおいなる慈悲をもって私達をおさめられる」ことを思い出し、「神に従う人は人間への愛を持つ」ことを実践いたしましょう。