年間第17主日(7月26日)の説教(テキスト)

皆さんおはようございます。

先々週と先週そして今週と、マタイ福音書に書かれたイエスのたとえ話が3回連続で話されています。皆さん、前二回の話は覚えていらっしゃいますか?

先々週(種まく人のたとえ:マタイ13-1) ここでは、神がイエスを人間の世界につかわし、神ご自身の計画を人間に教えてくださったことを言っています。これに対して人間は、その計画の一部となる・ならないの自由をこの世で与えられていることを思いだしましょう。

先週(毒麦のたとえ:マタイ11-24) 「毒麦であっても収穫までそのままにしておきなさい」と、裁きは神に委ね、希望を持って忍耐し続けるよう私達は求められています。それはキリストご自身の生涯が、身をもって示された手本でもあります。今私達が、お正月にたてた計画が新型コロナによって全て壊れてしまったと思う時、このイエスのお手本を思い出し、希望を持ちましょう。

そして今週は、畑にうめられた宝のたとえ(マタイ11-25)でした。 ここでは神の国の素晴らしさが、「宝」や「真珠」といった誰でも欲しくなる、わかるもので表現されています。その「宝」の存在を知った者は、全財産をはたいてそれが埋められている畑全体を買ってしまうのです。

「宝」を畑に埋める、という行為は私の母国フランスでは、戦乱の最中にはよくあることであり、わかりやすいたとえです。また真珠についても、真贋をわかる商人は、その価値がわかると、すべてを売り払ってその貴重な真珠を購入するという合理的な話です。

どちらにも共通することは、このマタイ福音書のテーマでありますが、自分を苦しめる重荷を捨て、自分の十字架を背負い、本当の価値を目指すイエスの道をたどりましょう、ということです。その道をたどることで、財産や権力は得られないかもしれませんが、より人間らしく良く生きることができ、心の平安と永遠の命を得られるのです。 この神の計画を受け入れるか、イエスが悲しい面持ちで見送った金持ちの青年同様立ち去るか、は私達の選択です。

今日読まれた旧約聖書(列王記3-5)では、若く自信の無いソロモンが率直に神にすがる姿が描かれています。 「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません.....どうか、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」 このように私達は謙虚な心で神に頼み、イエスの道を歩む兄弟姉妹たちと連帯し、悪と戦わなければなりません。

私達は全イスラエルをダビド王から引き継いだソロモンほどの責任は無いものの、それぞれの家庭・職場・学校・社会などにおいて責務を負っています。自分自身の未熟さから脱し、責任を果たして行かなければなりません。祈ること、そして兄弟姉妹と連帯することで苦難を乗り切りましょう。 私達が神の計画に入るために、社会の事情に応じて、正しい選択ができるように神に祈りましょう。