年間第18主日(8月2日)の説教(テキスト)

5班の皆さんおはようございます。

このように順番で限られた人数ではありますが、こうして聖堂でお会いすることができとても嬉しく思います。

新型コロナは依然として確実な情報や指針が乏しい一方、増え続ける感染者数のみが報道され、皆さんの間でも不安や恐れをお持ちのことと思います。

今日読まれたマタイによる福音書は、イエスの帰天後50年ほど経って書かれたものですが、その頃も初代教会は弾圧や仲間割れなどにより、不安や恐れに苛まされていました。そしてその後ユダヤ社会そのものも、紀元73年にローマによる滅亡に至るまで、大混乱の極みにありました。

こうした不安や恐れに苦しむ私達を、神様はどのように見ているのでしょうか。

今日読まれた、有名な「パンを裂き群衆に分け与えた奇跡」(マタイ1413)をもう一度見てみましょう。
洗礼者ヨハネの訃報に接したイエスは、静かに祈るために人里離れたところに退きます。

そこへ何千人もの群衆が救いを求めて、イエスの後を追って来たのです。

その群衆、指導者がおらず右往左往している群衆(つまり、これは現代の私達そのものの姿ですが)を深く憐み、その中の病人を癒したのです。

そして群衆が去らず、人里離れた場所であったので、人々のその晩の夕食が心配な状況になってしまいました。

現実を見る弟子たちは、人間の常識に従って、人々を帰宅させることをイエスに勧めました。

これに対してイエスは、「行かせることは無い」と強く否定し、人々を留まらせたのです。人間の常識に従う弟子たちは、神であるイエスの考えを全く分かっていませんでした。

果たして、弟子たちが恐れていた通り、夕食時には食料が足りなくなりましたが、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言うのみです。

そこで弟子たちは、今はこれしかありませんと、とある少年が差し出した(ヨハネ65)五つのパンと2匹の魚をイエスに捧げました。するとイエスは奇跡をおこし、5千人の群衆を満足させる食料を生み出したというお話です。

現代の解釈では、少年が持てるすべてをイエスに差し出したことを契機として、群衆の中で食料を持っている人が次々と持たない人に分け与え始めたというものがあります。これによれば、このイエスの奇跡の神髄は、人々の心の中にあるものをイエスが生かした、ということであり、直接的には小さな名もない少年の勇気がきっかけになったということです。

この解釈は不安や恐れに苦しみ、「奇跡」や「救い」を待ち望む私達にとって、示唆するものがあるのではないでしょうか。

自分を守ることの虜となり、不安や恐れに苦しんでいた群衆は、ここで初めて助け合うこと・分かち合うことを知り、心から「満腹した」のです。つまり人間らしく生きる、孤独な金の亡者としてつまらない人生を送るのではなく、人々と分かち合うことにより、泣いたり笑ったり共にすることが人間らしく生きるということであると学んだのです。この少年が自分の食料を差し出したように、あるいは寡婦の献金(ルカ212)で語られているように、自分に必要なものを隣人に与えることこそが、最も人間らしい価値のある行為であり、心を「満腹させる」ものであるのです。

不安や恐れの虜となり、他人よりも自分の安全のみを気にしていると、最後は他人に対して攻撃的になってしまいます。

最近読んだ記事ですが、ベトナム人の若い女の子が通りがかりの人に、「中国人は国に帰れ!」と怒鳴られたそうです。

そのことを知ったその子の先生は、学校で日本赤十字社が警告している次の3つの「負のスパイラル」を、学校で紹介したそうです。

第一の感染症: 病気としてのCOVID-19そのもの

第二の感染症: 不安と恐れ。「気づく力」「聴く力」「自分を支える力」を弱める

第三の感染症: その結果、「嫌悪」、「偏見」、「差別」が助長され、信頼関係ひいては社会そのものが崩壊する

神様はイエスが群衆を憐れんでくださったように、私達を深く憐れんでくださっています。

どうか私達が、最初に自分の食料を差し出した少年のように、神様の奇跡のきっかけとなれるよう、神様の助けを願いましょう。