年間第21主日(8月23日)の説教(テキスト)

「人々は人の子のことを何者だと言っているのか」(マタイ16-1323

半年前から、今回のコロナ禍によって、出口の見えない長いトンネルに入っている気持ちになっている方も多いと思います。

私はこのコロナ禍を神が人間に与えた試練というよりも、人間が自然との「未知との遭遇」によって大きな傷を負った、ととらえます。

上掲のイエスの呼びかけによって、私達は目覚めていることができるのか、そして未来への望みが再び湧いて出てくるか、考えたいと思います。

人の子、イエス・キリストとは何者か。

このイエスの名のもとに、時代によって、良いこともそうでないことも、激しく行われてきました。

例えば12世紀の聖フランシスコは、現代の飽食の私達からみれば極端な清貧な暮らしを幸せにおくり、その自然との和解の精神は私達の模範となっています。

また、アウシュビッツ収容所という究極の絶望の場においても希望を失わず、最後は身代わりによる死を選んだコルベ神父は、究極の隣人愛の姿を私達に示しています。

一方、イエスの名を戴いた者が傲慢となり、十字軍や宗教戦争といった悲惨な戦いが熾烈に繰り広げられたこともありました。

このような大きな違いは、まさに私達がイエス・キリストをどのようにとらえているか、によって変わってくるのです。

イエスは今、私達一人ひとりに直接尋ねています。

「あなたの人生の中で、私イエスは、どう存在していますか?」と。

無関心か、知っていても無視しているのか、あるいは、ほどほどに大切にしているだけなのか。

この問いかけを受けたシモンは、自信満々で「あなたはメシアです」とはっきりと答え、イエスを喜ばせます。

ご自身が「神でありながら人間でもある」ことをあかしながら、イエスは彼をペトロ=岩と呼び、「岩の上にわたしの教会をたてる」と宣言し、彼の特別な立場を明らかにしました。この時はまだ、今のような教会組織は無く、信者の共同体にすぎませんでした。荒海に漂う小舟のような不確かな存在でしたが、イエスは「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」として教会の不滅を保証し、ペトロに「『天の国の鍵』が授けられる」としたのです。

それでは、この『天の国の鍵』とはどのようなものでしょうか。

一般的な解釈としては、ペトロがイエスから、初代教皇としての特別な権威、人の罪を許すことができる権威と考えられています。

さらには、ダビデの家の鍵(イザヤ22-1923)にあるように、人のところに自由に出入りすることができる権能、なのです。

鍵を持つ人の権能(それは同時に使命であるのですが)として、鍵を開錠することで、苦しみ・悲しみ・疎外・抑圧からの解放、兄弟姉妹の自由、自立のための扉を開ける、そして自ら開錠するという、自分自身の人生の主役となることを意味しています。

また施錠するということは、人々を一つに繋ぎ、固く結ぶ、神様と隣人と解け難く一体化する、それを尊敬しあう、認め合う、分かちあう、助けあう、といった行動により実際に実現する、ということを意味しています。

「私は誰?」と問うたイエスに対し「あなたはメシアです」ペトロは答え、喜んだイエスは『天の国の鍵』をお与えになりました。

イエス様は、今、生きている声で、私達一人ひとりに同じ質問を呼びかけているのです。