年間第22主日(8月30日)の説教(テキスト)

今日の福音は先週に引き続き、同じマタイによる福音書第16章です。

先週読まれた箇所では、ペトロが得意満面にイエスへの信仰を公言し、喜んだイエスがペトロを弟子たちのリーダーにするという箇所でした。二人の関係は「信じれば報われる」という、あたかも順風が吹くようなものでしたが、そのすぐあとに、イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と叱る事態となってしまいます。順風から逆風へ、これは一体なぜ起きてしまったのでしょうか。そしてこれは私たちにどのような意味を持っているのでしょうか。

教会の礎の岩として、ペトロに信仰と奉仕の責任が与えられた一方、ペトロは十字架に向かうイエスの意思をまだ十分理解していませんでした。エルサレムに行けば迫害されることは明らかであることから、イエスの命を守るため、当然のこととしてエルサレム行きに反対したのです。イエスの考えはまったく別のところにありました。

イエスは弟子たちに、「イエスが神であること」を信じるだけでは十分ではないと諭し、十字架に向かって苦しむ「人の子としてのイエスの姿」を彼らがはっきり心に刻むことを望まれました。その姿とは、自分の利益を守り、最大化するという「人間の論理」に基きお互い戦い続けるという「人間の道」から離れ、「人のために命を捧げる」という神の道を受け入れる姿です。自分を守るために武器をとって戦うのではなく、人をかばうために我が身を投げ出す、という姿です。

そして「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままであるが、死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12-24)」と言ったことをご自身で示されたのです。

イエスがペトロに伝えようとしたことは、イエスが今、現代を生きる私たちに伝えたいことでもあります。

生きて行くため、幸福になるためには、人生において戦い続けなければなりませんが、永遠に勝ち続けることはできません。そして守りに転じ、困難・重荷を単に拒み続ければ、いずれは自分の中に閉じこもり、生きがいを失い、自分自身が死んでしまうようになります。

礼拝を日曜日にして良かったと満足するだけではなく、自分の人生を何らかの形で捧げること、自分を守ろうとするのではなく、与えることが必要なのです。それはもちろん簡単なことではありませんが、毎週のミサで自分自身を強め、神イエスへの思いを通して、人と出会い、神の論理に基いて人と接する、ということを目指しましょう。祈りとは、そのような神の道に近づくための原動力が湧き出る尽きることのない泉です。祈りを通じてイエスとつながり、自分の十字架を担う力をいただきましょう。

主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。」(エレミヤ:20-9)