年間第23主日(9月6日)の説教(テキスト)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

おはようございます。今日は私たちの共同体の形について考えてみたいと思います。

先月よりマタイ16章についてお話していますが、先々週ではペトロの強い信仰告白と、それに報いる形でイエスが教会のリーダーとして天国へつながる「教会の鍵」を与えた話をいたしました。今日の福音朗読はその続きです。イエスは弟子の乏しい理解力をおもんばかって、少しずつ教会の精神は何かを説いています。

教会とは、大きな、「人々の交わりの場」であり「祈りの場」であります。人々とつながって、兄弟姉妹として愛し合い、偽善や義務感ではなく、人間らしくいたわりあい、成長しあう場です。キリスト教が迫害されていた初代教会の頃は、二、三人がイエスの名前にて集まれば、それだけで大変な危険を冒すことでした。

今現在では、迫害はありませんが、コロナウィルスのために、教会に大勢で集まれない状態が続いています。忍耐を続けている信者の皆さんに感謝する一方、信仰共同体(Ecclesiaエクレシア)について考えてみましょう。それは単に習慣的に集まって、儀式をするだけの集まりではないのです。イエスはご自身の帰天後生まれる、このエクレシアについて、どう組織構成されるかなどというよりも、その信仰共同体がどのような精神を保っていくか、を最も優先しました。

その精神はつぎの二つから成る、二本足のものです。

  1. お互いに深く交わること

    一番小さい人(困っている、自立できないなど)を家族のように優先的に迎え、生活状況は違っていても互いに尊敬しあい、尊重しあうこと、また我々が責任をもって他人を受け入れられるよう罪やあやまちを責めたり罰するよりも、その人の世界に飛び込みまず理解してあげること、などが大切です。イエスも評判の悪い人々(徴税人、犯罪者、罪深い女など)と共に飲食し、一般社会からは理解されず批判されていました。誰でも考え方を変えるのは困難ですが、兄弟の優しい助け合いによってこそ、努力の基盤となる希望が生まれるのです。また、初代教会では、皆の前で罪を告白することによって、自分の弱さを皆に分かってもらい、これが、互いに交わり、赦しあうカタチとなり、互いに助け合っていたのです。

  2. 祈ること

行動は瞑想、反省に裏打ちされていなければなりません。祈りと行動は私たちの生き方の両面です。

今年に入って、ミサの共同祈願を各班で考え作っていただいています。飾った心ではなく、ナマの声、きれいごとではなくて、実際の生活の困難についても、兄弟の前で神様に「きりぬける力と勇気をお与えください」と祈ってみましょう。祈願を絶え間なく続けることは、交わりを改善するため欠かせないことです。こうして初めて信者同士の対立や共同体全体の困難を解決し、社会のなかでイエス・キリストの良い知らせを伝えることが可能なのです。

この「交わりと祈り」の場である教会は、共に神に祈り、世の人々を知り、困難の中にある人々に奉仕するためのものです。単なる内輪の「仲良し集団」ではなく、ましてや、味方の数を増やし敵をやっつけようというものでは決してありません。

教会堂という建物は、愛の交わりと祈りの場であり、神の存在の目に見える「しるし」であります。ここに、しばらくの間、フルメンバーで集まることができないのは、本当に残念ですが、別の形で最も大事なことである信仰共同体の兄弟同士の「つながり」を深めるよう挑戦してみませんか。第一朗読にあるように、エゼキエルの時代、キリスト者はイスラエルの家を危険から守る見張り役でした。現代では、この役は、一人では信仰を持つ事のできない人々に、世間が偏向した情報しか流さない中、一人一人に生きるための情報を伝えるということです。また第二朗読で読まれたように、愛しあうことについて兄弟・親子の間といえども「借り」をつくらないようにいたしましょう。つまり、愛を注がれた相手には、愛し返すことです。これが、「借り」返すことになります。「互いに愛しあう」と言うこと。このことは、とても大事なことです。

兄弟と教会との深い交わりによって、教会信徒一人ひとりが成長できることを願い、神様に祈っています。