年間第24主日(9月13日)の説教(テキスト)

皆さん、おはようございます。
今日の福音は、引き続きマタイ福音書18章、信仰共同体と「ゆるし合い」についてです。
私達は「主の祈り」を唱えていますが、その中に神に向かって私達の罪を許してくださいという部分がありますね。
「わたしたちの罪をおゆるしください、私たちも人を許します」、という部分です。
この祈りのとおり、神様は私達を許してくださいますが、決してそれで終わりではありません。
神から許される前提として、私達も隣人を許してあげなくてはいけないのです。
「やられたらやり返す」ということではなく、神が私達になさるように、人を許す、すぐにはできなくても憎しみを少しずつ許し受け入れていくということです。
教会リーダーに任命されたペトロは、これを聞き、「それではいったい、何回許せば良いのですか、7回ですか?」と尋ねます。
イエスは7の70倍、つまりどんなことがあっても、生涯努めなければならない、と言ったのです。
「あなたがた一人ひとりが心から兄弟を赦さないないなら、わたしの天の父もあなた方に同じようになさるでしょう」(マタイ18-35)
この、お互いに許し合うことを説くイエスの思いは、神とイスラエルの間に契約が結ばれ逸脱には罰が下される旧約の考え方から離れ、人が伸び伸び成長できるよう道をしめしたものです。
神と人間の関係は法律ではなく、愛によって結ばれた絆です。逸脱した場合でも深い反省(回心)があれば、復讐や罰がくだされることなく、再出発することが許されるのです。
この神からいただける愛を、わたしたち人間もお互いに与えあうことを、神は望まれています。
一方、わたしたちが生きている現実の世の中は、負けてはいけない、やられたらやり返す弱肉強食の世界です。誰もが被害者の気持ちでいるので、復讐は大変気持ちの良いことです。
こうした中、どうしたら神が望まれるように、人を許すこころを持てるというのでしょうか。
イエスの十字架上の最期を思い出してみましょう。
「父よ、彼らは自分が何をやっているのかわかっていません、彼らをお許しください」と臨終の際に自分を殺める人々を許し、神に許しを乞うたのです。
最期の最期まで私たちがお互いに許し合うことを望まれたイエスを思い出し、復讐はまた新たな復讐しか生まないことに気づきましょう。
今日読まれたパウロの書簡(ローマ14・7-9)のように、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という心持ちで、
主のように人々の心の痛みを感じれば、主のように悩む隣人にも手を伸ばすことができるのです。