年間第32主日(11月15日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音は、先週から引き続き、マタイ25章にて示されているキリスト者の「心構え」についてのものです。

先週では、人を迎える心、「心の油」というべきものを準備している人と、それを忘れてしまった人についての話でした。

人を迎える心を忘れて生きてしまう人は、自分の人生は他人に代わって生きてもらえることができないことと同じように、後になって他人に助けてはもらえない、という厳しいものでした。今日のタラントのたとえ話も、同じように、全く妥協しないイエス様の厳しい姿がみられます。優しいイエス様のはずなのに、なぜこのように厳しいものなのでしょうか。その訳を見てみましょう。

まず、今日のたとえ話の概略をもう一度みてみましょう。

主人が長期間不在となるのにあたり、数人の召使に大金を預けます。数年後主人が戻った時に、リスクを恐れて預かったお金を運用せずに、額面どおりそのまま返却した召使が厳しく叱責され、追放されるというたとえ話です。

旅にでる人とは神そのもので、召使すなわち人類は、創世記にあるように神からすべてを任されています。神が人間から離れていることは、人間を見捨てていることではなく、人間に託している(全世界を人間に譲っている)ということなのです。そのために神は、動物と異なり、人間だけにこの世を管理する能力をお与えになりました。

残念ながら、多くの人間はこのことを理解できず、単に優勝劣敗の生存競争を拡大するのみで、自分自身のありのままの姿を正しく評価できないのです。本質的にはむなしい富貴・権勢・華美などに惑わされ、他人をうらやんだり、憎んだり、そして不満ばかりが増していきます。

これは今日読まれたたとえ話で、タラント(自分の命)を守ろうとするあまりに、かえってそれを失い、「泣きわめいて、歯ぎしりする」状態を意味しています。

イエス・キリストが伝える「良い知らせ」とは、「自分のように他者を愛すること」です。それができないのは、「自分が神に愛されている」ことや「自分が神の目には、非常に価値がある」ということ理解できていないからです。

今日読まれたたとえ話で、預かったタラントを増やすことができた召使は、神に愛されていることを実感し神を信頼することができたからこそ、神から与えられた財産を増やそうと努力できたのです。一方、増やすことをせず土に埋めてしまった召使は、本当のところは神を信頼しておらず、自分自身だけを守ることだけに終始した人、を意味しています。

この物語からは、二つの点が学べると思います。

まず、私たちは皆、「神の姿」をもう一度はっきりイメージする必要があります。神は全ての人の幸せを強く願っています。私たちは他人の幸せのために働いているでしょうか。人を見下したり、無視したり、避けたりはしていないでしょうか。

そして、私たちが生きるということの目的は何でしょうか。ヨハネは「生きるということは、実を結ぶこと」と言っています。リスクをとって、他者に手を差し伸べることが生きることなのです。