待降節第1主日(11月29日)の説教(テキスト)

「目を覚ましていなさい!」と、今日読まれた聖書ではイエス様は3回も言われました。これはどのような意味なのでしょうか。

今日から待降節が始まりました。教会暦では今日からB年となり、これから一年間かけてマルコによる福音書を読んでいきます。マルコがイエスの直接の弟子ではなく、ペトロの話を受け取って書かれたこともあり、マルコによる福音書は先週まで読まれていたマタイによる福音書と少し異なります。これから少しずつ読みながら、その違いを味わい私達が、「目覚めるように」学んでいきましょう。

待降節が始まったということは、もう4週間後にはクリスマスが来てしまいます。救い主が来たと祝うのに、また来るとはどういうことでしょうか。

これはイエス様が人の形をとってこの世においでになり、死と復活をもって「良い知らせ」を私達に下さったあと天に戻られました。そののちに今の私達がいます。そしていつであるかはわかりませんが、この世がすべて終わる時に、イエス様は再び来られるのです。イエス様は決して私達を裁く怖い裁判官のような方ではなく、私達を喜んで迎えに来てくれる方です。ですから、その「いついらっしゃるかわからない」イエス様の再臨にそなえて、私達は常に目覚めていなければならないのです。

3週間前、いつ来るかわからない花婿を待つ乙女達が、うっかり灯の油を切らしてしまうたとえ話が読まれました(マタイ25,1-13)。日常の暮らしに流され、信仰や隣人愛といった心の油を切らし、暗闇の中で惰眠を貪ってはいけません、という警句でした。今日読まれた聖書も、日々の暮らしの中で、一歩進んでイエスの良い知らせとは何か、探さなければならないことを言っています。

現実を振り返れば、欧州ではコロナ禍がぶり返し、多くの人々が狭い環境に閉じ込められ、生活困窮者が増えています。日本においても同じ苦しみにあっている人が数多くいます。このような中からどのような解放をえられるでしょうか。

「目を覚ましていなさい」とは、私達は生きている限り毎日、チャンスがあるということです。

毎日、少しばかりの時間をとって、聖書を読む、祈る、瞑想するということを行いましょう。自分を見つめ、自分を認める訓練をしてみてください。

私は、いつ、どうなるなどという、今までいろいろな大きな計画を立てていた方々の中には、それらが今や大きく変わってしまったこともあるかもしれません。

しかし、大きな計画を立てられなくても、心の中で小さな目標を立てることができます。毎日、なんらかの形で「イエス様と出会う」そして「兄弟を助ける」ことはできます。そしてそのことにより、自分という人間を成長させることができます。

物質的には、今までどおりの日常生活に戻れないことがあるかもしれませんが、一人一人、自分自身の解放のために、自分のできる小さなことをすることにより、イエス様のように大きくなれるのです。

この待降節にイエス様と出会うために、次の祈りを唱えてみましょう。

「神様、あなたを良く信じている私達は、まだまだ弱い存在です。どうか私達を強め、あなたが離れている、留守だと思ってしまう時にも、あなたを思い出せる力と忍耐力をお与え下さい。そして時間を大事にし、イエス様と兄弟と共に歩み続けることができますように。」

最後に、一年前教皇様が来日した際に私達に与えてくださった課題を想いおこしましょう。

・世の中での平和の道を拓けますように

・互いに深い憐みをもって人を迎えることができますように

・教会の中、兄弟同士がより深く、本音で話し合うことができますように

また、このコロナ禍の中、帰国することもかなわず社会の底辺にあって苦しむ異邦人を助けることができますように。

「主よ、あなたはわれらの父、私達は年度、あなたは陶工。私達は皆、あなたの御手のわざ。(イザヤ64-7)