待降節第2主日(12月6日)の説教(テキスト)

「主のみちを整え、その道筋をまっすぐにせよ」というヨハネの言葉を聞くと、特に今パンデミックに苦しむ現世にあって、では救いの道はどのように示されているか世界中の人が知りたいと思うことでしょう。 

人間である以上、人は苦しみから救われたい、困難から解放されたい、と思うのは自然なことです。しかし、小説を飛ばし読みをして結末だけを知るようには、キリストが示す救いに到達することはできません。それは、一歩一歩、人と交わり、人と共に工夫しあって、キリストの道を歩んでいくことで到着できるものなのです。 

今日からはマルコによる福音書を読んでいきます。四大福音書は、マタイによる福音書は学者肌で理論的、ルカによる福音書は弱者と接するイエスの姿を詳述するなど、それぞれ特徴がありますが、マルコによる福音書は彼がペトロから聞いたことをまとめ、分量としては比較的短いものとなっています。それゆえ、要点をストレートに私達に投げかけてくるものとなっています。 

この福音書は洗礼者ヨハネが荒れ野にて洗礼を人々に授けるシーンから始まっています。当時ユダヤ教はローマ帝国の支配を容認し弱者保護には無関心であるなど、人々の支持を失いつつありました。そのままであれば、その親同様、ユダヤ教神官の道を歩んでいたであろうヨハネは、その道から離れ、荒れ野(砂漠)にて極めて質素な修道生活を始めました。 

文明社会から離れ、何もない砂漠の中で、神と自分とだけに向かい会う、そのことによって考えなかったことを知り、見えなかったものを見えるようになったのです。 

何も無い荒涼とした砂漠は神様と出会うには、適切な場所でありました。今の私達も、教会に来れなくなった、人と会えなくなった、聖体拝領もできなくなった、と同じ荒涼とした砂漠にいるように感じられている方もいると思います。しかし神様は、家でも社会の中でも、24時間答えてくださいます。どんな状況の中にあっても、神様は私達を見捨てることはないということを、忘れないようにしましょう。 

荒涼とした砂漠のイメージは、便利な都会の暮らしの対極にあると思われがちですが、実は今生きている私達の暮らしは、多くの責任や不安を抱え、慰め・共感・希望に乏しい殺伐としたものになりがちではないでしょうか。その意味では、砂漠に生きているといっても過言ではありません。これから救われるためには、今のライフスタイルを変え、別な生き方や生活を求める道を選ぶ、ということになります。ヨハネが砂漠に入り神と出会い、人生の中で大切なものは何かを知り、その後短くも最後まで神と共に歩んだ洗礼者ヨハネの生き方が参考になると思います。 

自分の使命に気づき、自分の生きる道筋をまっすぐにする、ということはいつでもできることです。それは洗礼を受け神とつながることによって確実となります。なぜなら神様は私達を決して見捨てないからです。 

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いていかれる」(イザヤ40-11