待降節第4主日(12月20日)の説教(テキスト)

 

皆さん、待降節最後の日曜日、クリスマスももうすぐです。

 

今日は、イエス様が宿られたマリア様の模範に学びながら、イエス様を迎える準備をしたいと思います。

 

今日の第一朗読で読まれた旧約聖書、サムエル記(サムエル下7-1)は、今から3千年前、長い間砂漠でさまよっていた神の民がイスラエルという約束の地に定着するようになった頃の話です。

 

その約束の地をめぐる異邦人との長い戦いに勝利したダビデ王は、レバノン杉でできた素晴らしい王宮に住めるようになりました。しかしダビデ王は、自分がこのような壮麗な建物に住んでいるにもかかわらず、我らの主がおられる契約の箱は、幕屋に安置されたままであることに不安を感じます。そこで、預言者を通して神殿を建てたいと神に相談したのです。ところが、預言者に下ったお告げは、そのようなものは不要であるということでした。

 

つまり、神とは、そのような狭い箱に入り壮大な大神殿の奥の院にあるようなものではなく、神はどこにでもいるもの、特に人の心の中に住むことを望んでおられる、ということだったのです。

 

確かに仲間と共に、神と祈りにより結びつくことができる、落ち着いた場所は必要でしょう。しかしそれを強調しすぎると、かえって神が人の普段の心から離れていきます。神は定住するよりも、ひとところに落ち着かず放浪生活が好きなのです。人間には感知できない、どこにでも、いつでもいる存在であり、人の心の中に宿るものであり、また、宿りたいと願っているものなのです。

 

このことを、今日の第二朗読(ローマ16-25)の中でパウロは別な角度から言っています。

 

神は大神殿の奥の院にあり神官に守られあがめられたりするものではない、と何度も何度も預言者を通して人間に伝えているのに、人間はそれを聞かずに神殿を建ててしまう。そこで、神ご自身であるイエス・キリストを世に送り、異邦人でも誰でも、日常生活の中で、人と人との交わりの中で、すべての人と神が出会うことができるようにする、というのが「神のご計画」であり、福音(神の良い知らせ)なのです。

 

この神のご計画では、神は人間の手で作られた壮麗な神殿ではなく、マリアというナザレの若い女性の胎内に宿ることになりました。今日読まれたルカ福音書(ルカ1-26-38)では、医者であったルカがマリアの受胎告知の情景を具体的に詳述しています。カトリックではガブリエル、ラファエル、ミカエルを三大天使といい、それぞれ「神の影響力」「神による癒し」「神の力」を伝える存在です。そのガブリエルが現れ、神のご計画をマリアに伝えたのです。

 

このルカ書で描写されるマリアの姿は、感情をあらわにはしませんが、決して無気力な心ではなく、偏見の無い開かれた心、素朴ながらも奥深い信仰、といったものです。男性を知らず、神から直接影響を受けた子の母となるということは、とてつもないことです。しかしマリアは動揺せず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。文語では「仰せのごとくわれになれかし」と言われますが、「なれかし(be it done)」はラテン語でFiatの一語となり、マリアの深い信仰に裏打ちされた従順さを示す一語(マリアのフィアット)として今日に至るまで伝えられています。

 

責務・運命をすべて一人で背負うのではなく、ある歴史の一節に過ぎない、3千年前からつながっている神と私達のつながりの中で、マリアの信仰と従順さを手本に今を生きましょう。昨日は過ぎましたし、明日はまだ来ません。今しかないのです。