聖家族(12月27日)の説教(テキスト)

皆さん、ご存じのように24日のクリスマスから3日の主の公現の祝日まで、教会の典礼はイエス様の降誕について黙想するようになっています。今日はその中でもイエス様とその家族、聖家族についてです。聖書の中の聖家族は、あまりにも美化されている気がいたします。私たちは、イエス様とその両親が、本当のところどのような家族であったか、見ていきたいと思います。

どの国、どの時代でも、家族は社会の最小単位の核です。社会が痛むときには、その最小単位である家族に最初にしわ寄せがいき、家族が苦しむことになります。

ナザレにあったイエス様の家庭もそうでした。

マリアはすべてのことを心に留めていたと、言われていますが、何を心配していたのでしょうか。今日読まれたルカ福音書の中では、幼子イエスを抱いたマリアは神殿でシメオンと出会い、イエスの活動と受難、そして「心を剣で刺される」と表現されたマリア自身の苦しみを予言されています。マリアも家庭生活においては私たち以上に、悩み苦しみがあったことは想像に難くありません。

一方、父ヨゼフはイエス様の父親でしたが、マリアはヨゼフを知る前に妊娠したので、実際には養父というものでしょう。ヨゼフは神の御子誕生とその名をイエスと名付けるようにとの天啓を受け、それを信じ従います。この従順さは、創世記に描かれている蛇に騙されて神を欺くエヴァと好対照を成しています。ヨゼフは神を信じその保護を受けます。一方エヴァはその保護から離れた結果、価値観が分裂・崩壊し自分が誰だかわからなくなってしまいました。

先ほど申しましたように、戦争をはじめ社会が分裂し厳しい状況に陥ると、それは家族にしわ寄せがいき、家族の間にも分裂や不和が生じます。アダムとエヴァが楽園を追われた後、カインが弟アベルを殺してしまうのは家庭内不和の極端な例です。また今日の第一朗読で触れられたように、アブラハムとその妻サラが長く不妊に苦しむなど、家庭内の問題は昔も今も変わりありません。しかしアブラハムが、折角生まれたイサクを神に試されて、供物に捧げかけたように、私たちの信徒の先達は家庭内の問題に直面した時には、神に従うことでその問題から切り抜けてきました。

家庭内虐待が社会問題となって久しくなります。忙しくて面倒を見ることができないのか、そもそも子供を愛することができないのか、子供が放置されたり虐待されることが報道されています。家庭内の雰囲気はとても大切なものです。父親・母親・兄弟に愛されて育ったという感覚を持つ人は、家庭が心を癒す場所であるということをわかっているので、家庭内で困難に直面してもそれに立ち向かうことができるのでしょう。「他者と共に生きる」というのは、実は社会だけでなく家庭内においても、難しいものなのです。家庭内では各人がそれぞれの仕事をしているだけではなく、お互いの顔を見て、今どのような気持ちでいるのか察しあうことが大切です。この雰囲気があってはじめて、何かを生み出す家庭、たとえそれが潰れても立て直すことができる家庭、になるのだと思います。

今までカトリック教会は、結婚は神の秘跡として、厳しい見方をとってきました。愛の掟を貫くということですが、それは十字架が縦板と横板から成っているように、神から人への愛(縦方向)と人間同士の愛(横方向)を愛の交わりとして固く繋げるということです。家庭生活のなかでは色々な出来事が生じます。アクシデントや不幸と思われることが起きても、神への信仰と教会の人々との交わりの中でそれを受け止め、人間としてのバランスをとれるようになるのです。家族同士の信頼が時として損なわれ危機に陥ることもあります。このような時、神を忘れ、罪を犯したダビデが悔悟ののちに神から許されたことを思い起こしてみましょう。信頼を忘れて自己中心に陥り、好ましくないことをしても、ダビデは神から捨てられませんでした。それはダビデが深く反省し償う心があったことと、そのようなことを超える「絆」が神とダビデの間にあったことを意味します。

このように家庭生活に関連する箇所は聖書にはこのほかにも多くあり、私たちの家庭生活や人間関係を見直す時には、聖書をひもといてみましょう。このとき次の三点に気をつけると良いと思います。

・聴くこと:神様のみ言葉に従う、聖書のメッセージに耳を傾ける、各家族メンバーの声を聴くこと。

・生命を大切にすること:子供は自分のものではなく神から預けられたもの、共に成長していく雰囲気づくり。

・協力すること:マリッジエンカウンターなど、夫婦や家族の問題を話しあう相手や場を見つけること。

最後に、自分自身だけでなく、困っている家族、苦しんでいる家族への関心を私たちは持ち、家族同士、愛の交わりを深めることができることを神に祈りたいと思います。