主日の説教

年間第30主日(10月25日)の説教(テキスト)

年間第30主日

「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの言葉があります。

これは世界でも知らない人はいないくらい有名な言葉ですが、キリスト教でない方々からは、「隣人を愛することは当たり前で、何もキリスト教の専売特許ではありません」という声もあります。実際、イエス・キリストがこの世に来る前に、人間社会の中に愛は存在していました。それでは、今日マタイ22章で読まれた、イエスの「隣人を愛しなさい」という言葉は、何か新しい、独特なメッセージをもっているのでしょうか。考えてみましょう。

古今東西の文明に共通することとして、いわゆる模範的な偉人とされる人の人物像は似通っています。能力、美、力、成功などに富んだ人が選ばれ、貧しい人、傷つきやすい人、疎外されている人、経済的な価値の無い人、外見が醜い人、などは、社会を底辺で支えていたとしても注目されることはなく、忘れ去られがちです。何故でしょうか。

今日の第一朗読では、キリスト以前に、神が社会をどう見ていたかがわかります。

年間第29主日(10月18日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音(マタイ2215-21)では、有名なイエスの言葉「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」が出てきます。

年間第28主日(10月11日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音(マタイ22章)は神は人を一人一人大切にしてくれることがテーマです。

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」の婚宴とは、人間がバラバラにならないように、幸せになるようにと願う神の望み・夢です。

その婚宴とは、神と共にいること、神の国に与かることによって、大きな幸せを得ることです。宴会のような一時的な出来事ではなく、いつも戸惑う人間のために、神が用意してくれる神の国にたどり着く「道」を意味しています。

この世では幸せではない私たちを救うためにイエスはこの世に現れ、教会ができました。教会が人の幸せを考え、そのため、神の国の窓口になるのです。しかし、幸せを求めている人が教会を訪れても、時として、「婚礼にふさわしくない服を着て訪れる」ように、イメージにあわないように感じられるかもしれません。

年間第27主日(10月4日)の説教(テキスト)

今日は、 マタイ21章の後半、ぶどう園を「私物化」する管理者たちのことが語られています。この背景として、エルサレムへ向かうイエスの自伝も読まれます。

年間第26主日(9月27日)の説教(テキスト)

 

先週に引き続き、今週の福音もマタイによる福音書のぶどう園で働く人のたとえ話ですが、今日はレベルが高まって、イエスと神殿の祭司長達との対話です。いえ、対話というよりも、激しい激論といったほうが良い内容です。皆さまと一緒に考えていきたいと思います。

 

このたとえ話には、父と、それと共に働く兄弟が出てきます。仕事の話ですので、父は兄弟に対して、主人としてぶどう園で働くように依頼します。兄は父とは違う考えを持っていましたので、いったんはその依頼を断りました。しかし、後から思い直してぶどう園へ向かい、その日ブドウ園で働きました。一方、弟は即座に「ぶどう園に行きます」と父に言ったものの、結局ぶどう園に行くことはありませんでした。

 

イエスは祭司長たちに「この兄弟のうち、どちらが父親の望み通りにしたか?」と尋ね、彼らから「兄のほうです」という答えを得ています。これには、イエスの伝えたい意図がありました。

 

年間第25主日(9月20日)の説教(テキスト)

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55-8

今日読まれたマタイによる福音書(マタイ20-116)は、エルサレムに向かうイエスの最後の話を伝えてくれています。

年間第24主日(9月13日)の説教(テキスト)

皆さん、おはようございます。
今日の福音は、引き続きマタイ福音書18章、信仰共同体と「ゆるし合い」についてです。
私達は「主の祈り」を唱えていますが、その中に神に向かって私達の罪を許してくださいという部分がありますね。
「わたしたちの罪をおゆるしください、私たちも人を許します」、という部分です。
この祈りのとおり、神様は私達を許してくださいますが、決してそれで終わりではありません。
神から許される前提として、私達も隣人を許してあげなくてはいけないのです。
「やられたらやり返す」ということではなく、神が私達になさるように、人を許す、すぐにはできなくても憎しみを少しずつ許し受け入れていくということです。
教会リーダーに任命されたペトロは、これを聞き、「それではいったい、何回許せば良いのですか、7回ですか?」と尋ねます。
イエスは7の70倍、つまりどんなことがあっても、生涯努めなければならない、と言ったのです。
「あなたがた一人ひとりが心から兄弟を赦さないないなら、わたしの天の父もあなた方に同じようになさるでしょう」(マタイ18-35)

年間第23主日(9月6日)の説教(テキスト)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

おはようございます。今日は私たちの共同体の形について考えてみたいと思います。

先月よりマタイ16章についてお話していますが、先々週ではペトロの強い信仰告白と、それに報いる形でイエスが教会のリーダーとして天国へつながる「教会の鍵」を与えた話をいたしました。今日の福音朗読はその続きです。イエスは弟子の乏しい理解力をおもんばかって、少しずつ教会の精神は何かを説いています。

教会とは、大きな、「人々の交わりの場」であり「祈りの場」であります。人々とつながって、兄弟姉妹として愛し合い、偽善や義務感ではなく、人間らしくいたわりあい、成長しあう場です。キリスト教が迫害されていた初代教会の頃は、二、三人がイエスの名前にて集まれば、それだけで大変な危険を冒すことでした。

年間第22主日(8月30日)の説教(テキスト)

今日の福音は先週に引き続き、同じマタイによる福音書第16章です。

先週読まれた箇所では、ペトロが得意満面にイエスへの信仰を公言し、喜んだイエスがペトロを弟子たちのリーダーにするという箇所でした。二人の関係は「信じれば報われる」という、あたかも順風が吹くようなものでしたが、そのすぐあとに、イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と叱る事態となってしまいます。順風から逆風へ、これは一体なぜ起きてしまったのでしょうか。そしてこれは私たちにどのような意味を持っているのでしょうか。

教会の礎の岩として、ペトロに信仰と奉仕の責任が与えられた一方、ペトロは十字架に向かうイエスの意思をまだ十分理解していませんでした。エルサレムに行けば迫害されることは明らかであることから、イエスの命を守るため、当然のこととしてエルサレム行きに反対したのです。イエスの考えはまったく別のところにありました。

年間第21主日(8月23日)の説教(テキスト)

「人々は人の子のことを何者だと言っているのか」(マタイ16-1323

半年前から、今回のコロナ禍によって、出口の見えない長いトンネルに入っている気持ちになっている方も多いと思います。

私はこのコロナ禍を神が人間に与えた試練というよりも、人間が自然との「未知との遭遇」によって大きな傷を負った、ととらえます。

上掲のイエスの呼びかけによって、私達は目覚めていることができるのか、そして未来への望みが再び湧いて出てくるか、考えたいと思います。

人の子、イエス・キリストとは何者か。

このイエスの名のもとに、時代によって、良いこともそうでないことも、激しく行われてきました。

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