2010年3月7日 四旬節第3主日   (C年)

私たちは祈るときにはあるがままの自分で神の前に立ち、真の自分自身をさらけだして神に話しかけます。しかし、神とは誰なのでしょうか。それはどのようなものでしょうか。今日のミサの聖書の箇所は、その神の手がかりをあたえてくれます。
出エジプト記:神はモーゼを名前で呼びました。聖書では、それぞれの人を名前で呼ぶということは、温かさや親しさの象徴です。神は私たちの名前をご存じで、名前で読んでくださるのです。祈りの中で温かい親密さをもって招いてくれたのです。しかし神は全能の創造主ですから、私たちも尊敬と崇敬を神に示すべきです。(これはモーゼが靴を脱いだことによって暗示されています。)神との親密さと神への崇敬、この二つのバランスが大事で、一方に偏りがあってはなりません。
神は常に私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。祈りは神に届くのです。神は「あなたの悲惨な状況が見えます。あなたの嘆願が聞こえます。そうです、私はあなたの苦しみに気がついています。あなたを助けてあげましょう。」と言っています。
「病気になった(あるいは試験に落ちたとか他の苦しみに遭遇した)のは教会に行かなかったからだ」などと人が話しているのを聞くことがあります。福音の中でイエスはこのような考え方を強く否定しています。私たちの神は、懲罰的な神ではありません。神は冷たい、厳格な律法の神ではありません。今日の福音の中で、ピラト総督により殺されたり、建設中の塔が倒れてきて死者が出たことについて語られています。このことを罪に対する報いだと言う人がいました。イエスはこの考えを否定し、神はそのようなものではない、神は人間の弱さを理解し、人間の回心を希望をもって待っている、と言っています。私たちはいつでも、あの放蕩息子のように、神のもとに戻り温かく迎え入れてもらえます。愛されている子供として、その優しい父に対して私たちは祈るのです。詩編103章8節と14節は私たちが祈る神のありようをよくまとめています。
「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い......
 それは、神は私たちが塵から造られたことを覚えておられるからである。」
かくも優しい神様に、わたしたちの祈りを届けましょう。