2010年4月11日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)   (C年)

今日は「神のいつくしみの主日」と言われる日です。辞書にはいつくしみとは神の思いやりと書いてあります。しかし特に怒濤のように多くの言葉が氾濫する現代にこの定義では、私たちの心に響いてはきません。神のいつくしみを理解するためには私たちは聖書を開き、イエスの一生におけるいつくしみの明確な例について熟考する必要があります。
では、二つの例をみてみましょう。(1)マグダラのマリアはあまりにも孤独で打ちひしがれ、悲しみにくれて、空っぽのイエスの墓の前で泣いていました。復活したイエスは彼女の前に現れ、「マリア!」と彼女の名前を優しく呼びました。イエスは彼女の涙を理解し、優しい同情を示されたのです。復活したイエスは今に生きる私たち一人ひとりを名前で呼び、同じいつくしみを注いでくださいます。
(2)今日の福音では12人の弟子の一人、トマスが出てきます。彼はイエスを約束された救い主として、彼の国をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかしイエスは罪人として十字架上で死んでしまいます。トマスの高い望みは消え失せてしまいました。彼は打ちのめされ、仲間から抜け出して一人になっていました。(何と人間らしい行動でしょう!) トマスのいない時にイエスは他の使徒たちの前に現れたのです。そのことを戻って聞かされたトマスは、「復活したなんて決して信じないぞ」と言ったのです。トマスは頑固で疑い深かったのです。復活したイエスは再び現れましたが、トマスを叱ることはありませんでした。イエスはあるがままのトマスを受け入れたのです。これは神のいつくしみの例です。ここで私は次の3つの点を明確にしたいと思います。
(1)聖書を開き、祈りの心をもってゆっくりとイエスのいつくしみ、優しさ、思慮深さと思いやりの例を読んでみましょう。奇跡の裏にその奇跡の理由、すなわち思いやりがあることをしっかりみましょう。
(2)同じイエスが復活して、今日も私たちとともに生きているのです。
(3)同じイエスに私たちは会うことができ、聖体拝領、共同体、また他者への優しさを通してイエスに出会う時、同じ思いやりをいただくことができるのです。「疲れた者、重荷を背負う者は誰でも私のもとに来なさい・・・」