2010年4月25日 復活節第4主日(良き牧者の主日)  (C年)

 カトリック教会では今日は良き牧者の主日とよばれ、「主は刈り入れに働き手をお遣わしになる」(マタイ9:37)と祈り、イエスの呼びかけに応える特別な日です。私自身の司祭としての生き方の側面をお話ししようと思います。

イエスは「私は道、真実であり、命である」(ヨハネ14:6)と言っておられます。司祭としての私にとって、イエスの「私は命である」という言葉は、カギとなる言葉でした。35年前、私は司祭としての人生に新たな意義をもたらす小さな啓示を受けました。私は、友人の3歳になる双子を寝かしつけながら本を読んであげていました。もし、結婚していたならば、この子たちは私の子供だったかもしれない、との思いがよぎり、自問自答したのです。「命を与えるために、私は何をしているのだろう?」と。その時以来、私は司祭として、命、すなわちイエスの道具になろうと心してきたのです。

「命であるイエス」という言い方で、人々が心の平安を持てるように、信仰に喜びを得られるように、生きる意味を見出せるように、暗闇で光そして希望を見つけられるように、私は働き、祈ってきました。ノーベル賞受賞者の大江健三郎の「現代の日本社会は希望が持てないという大きな危機に直面しています」という言葉は私を駆り立てます。自分自身が希望の道具となれるように、暗闇の中の一本の蝋燭となれるように、イエスが私たちに与えた命の道具となれるように、祈っているのです。

では、どのようにこの「命」を体験できるのでしょうか。言い換えると、どうしたらイエスと会うことができるでしょうか? イエスと一体となれる五つの方法をご紹介します。
1)聖書、特に福音書をゆっくり注意深く読んでみましょう。
2)今、友人として私たちと共に生きているイエスに祈りを通して話しかけてみましょう。
3)聖体拝領を通してイエスと出会いましょう。
4)教会の共同体を通じてイエスと出会いましょう。
5)そして人々、特に困っている人々に対して思慮深く、親切にすることによってイエスと出会いましょう。(マタイ25参照)
これらの方法は誰にでもできることです。皆さんが命を得ることができるよう、私は司祭としてこれらのことを勧めているのです。私は、その命の道具、土の器にすぎないのです。