主の洗礼 2005年1月9日

先週、聖書の読み方について、お話ししました。
聖書には、歴史的事実を記録している「表面の意味」と、その下にひそんでいる「深い意味」があると言いました。「深い意味」は、真理や本質にかかわることが、間接的・預言的に述べられているものです。

さて今日の福音(マタイ3・13−17)では、イエスが洗礼を受けたことが描かれています。先ほどの二つの意味でいうならば、「表面の意味」としては、イエスが洗者ヨハネからヨルダン川において洗礼を受けた、という歴史的事実を意味するのみです。それでは「深い意味」としては何を意味しているのでしょうか。それは、イエスの洗礼とは私達自身の洗礼を意味している、ということです。

洗礼式は、儀式としてだけみるならば、簡単なものです。「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けます」という、短い言葉とともに洗礼が授けられるのです。しかしこの簡単な言葉には「深い意味」があるのです。神様自身がこの簡単な言葉の中に入り、洗礼を授かった者は父なる神の子、イエスの兄弟となり、そして聖霊の助けを受けるようになるのです。

洗礼を受けた者は、「私の愛する子、私の心にかなう者」となり、「あなたは私の愛するものである」と父なる神から大切に思われるのです。洗礼を受けたならば、幾つ歳をとっても、神の愛に包まれた、神の子供として明るい毎日を過ごすことができます。

洗礼を授かり、父なる神の子供となったことで、洗礼を受けた者は同じ神の子イエスの兄弟となります。神であるとともに人間でもあったイエスは、わたくしたちの直面する人間としての弱さ・苦しみをよくわかってくださいます。このようにわたくしたちを身をもって理解してくださる優しいイエス様が、洗礼によりわたくしたちの兄弟になってくれるのです。イエスと同じく洗礼により神の子になる、という意味でイエスの洗礼とは私達自身の洗礼を意味しているのです。

洗礼を受けた者は聖霊の助けを受けることができます。私たちはこの世において様々な使命・責任がありますが、それらを行ううえで聖霊は私たちを助けてくれます。

このように洗礼とは大変すばらしいもの、毎日の祈りを通じて神と親しみ、信仰を大切にしましょう。