2010年7月11日 年間第15主日   (C年)

善きサマリア人のお話は何回も耳にし過ぎて食傷気味になってしまって、肝心の大切なメッセージに鈍感になったり聞こえなくなっているかもしれません。

エルサレムからエリコへの道は寂しい山道でした。ある日、強盗がユダヤ人を襲い、すべてを奪い半殺しにして放置して去って行きました。道端に、傷だらけになって血を流して倒れている姿を想像してください。そこへ最初は祭司が、そして次に神殿奉仕者がやって来て、倒れている同胞に目をやりましたが、しかし、わざと道の反対側を通って立ち去ったのです。その後に、ユダヤ人に軽蔑されていたサマリア人が通りかかりました。彼はこの傷ついた人を見て同情で心が一杯になりました。彼はロバから降りて彼を乗せ、傷口を洗い塗り薬の手当てをしました。通りかかった最初の二人は、積極的には何もとりたてて悪いことをしていません。しかし、彼らは善行をしないという、不作為の罪を犯したのです。

現在の社会では、キリストの道を私たちが真に歩もうとする時、「誰が私の隣人なのでしょうか?」いう重要な問題に行きあたります。イエスは私たちに、隣人とは異なる宗教、異なる人種、異なる社会的背景の人々であることを説いています。アフリカの果てや遠いパレスチナの地においてさえ、私たちの隣人はいます。もし、誰かが、誰ででも苦しんでいたり、寂しかったり、軽蔑されていたら、それらの人々は私たちの隣人であり、世話をされるべき人、愛されるべき人、なのです。善きサマリア人のたとえ話は、私たちにとって、とてつもない挑戦なのです。

堅固な隣人愛を実行するには、次の3段階があります。
(1)まず、私たちの心にアンテナをはり、困っている人(多くの人は心の傷を隠しています)に敏感になりましょう。
(2)そしてその人たちに共感する必要があります。共感・同情、とは、「当人と共に、痛みを感じる」という意味があります。ユダヤ僧とレビ人はこれがありませんでした。サマリア人にはあったのです。
(3)共感・同情は、その困っている人々を助ける実際の行動となって現れなければなりません。善きサマリア人の優しさと愛は大きなものでした。私たちも、たとえ日常の小さな親切の行動で結構ですから、善きサマリア人のお手本に従おうではないですか。笑顔、励ましの言葉、賞賛(たとえば、「ご飯、おいしかったです!」の一言だとか)、あるいは同情の言葉などは、傷ついた心を回復させる「癒しの葡萄酒と油」なのです。
ぜひ、やってみましょう。