四旬節第2主日(A年)2005年2月20日

今日の福音(マタイ17・1−9)は、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登り、光り輝く神の栄光をお見せになった場面が述べられています。イエスの姿は弟子たちの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。変化したイエスは、天から現れたモーセやエリヤと語り合ったり光り輝く雲に包まれるなど、まさにイエスご自身が真の神であるという証しの場面となっています。

このイエスの神性を強く示す「光り輝く山上」の一節は、対照的なもう一つの一節と読み合わせるとよく理解できます。この一節とは、イエスのご受難の夜の「暗闇に包まれた平地」の部分です。

「彼らはゲッセマニというところに来た。イエスは「私が祈る間ここに座って待て」と弟子たちに命じ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れていかれた。イエスは激しい恐れと悩みに打ち沈み、「私の魂は死なんばかりに悲しむ。あなたたちはここにいて目を覚まして待て」と言われ、少し進んで地にひれ伏し、できればこの時が遠ざけられるようにと祈られた。「アッバ、父よ、おなたには何でもおできになります。この杯を私より遠ざけてください。とは言え私の思いのままではなく、あなたのみ旨のままに」といわれた。」(マルコ14・32−36)

この一節では、イエスが司祭長達に捕縛される直前、深い闇の中で悩み苦しむ人間イエスが描かれており、イエスご自身が神であるとともに、真に人間でもあったという証しとなっています。

神であるものが人間となって現れたこと、これは神学的には「ご託身」あるいは「受肉」などという言葉で表しますが、これは難しい教義上の理屈ではなく、私達の毎日の生活のため、普通の人の信仰のために重要です。毎日の祈りの中に反映されるものなのです。

「光輝く山上に立つ神であるイエス」と「暗闇の平地に祈る人間イエス」の二つの面を合わせて真のイエスなのです。イエスは外見上だけではなく、私達とまったく同じ人間性を持った、肉を持ち血もかよった人間でした。私たちの神はみずから人間を経験したので我々人間をとてもよくわかってくださっています。私たちの神は、決してぼやけた・わかりにくい・遠い存在ではありません。神ご自身が「我々であること」がどんなことであるかみずから経験なさっているのです。親しみやすく、祈りやすい存在なのです。

皆さんこの四旬節の間、毎日の祈りのなかでイエスと話しあい、暖かい心のつながりを築きましょう。イエスは「着飾った心」は望まれませんので、私たちの「ありのままの心」を捧げましょう。「私は今日はこのような気分・気持ちです。」と素直に、親しい友達に語りかけるように話しましょう。

「疲れた者、重荷を背負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」イエスの親しいお招きに応えましょう。

最後に、四旬節第二週にあたりヨハネ・パウロ二世教皇からメッセージがあります。教皇様は84歳ですが、過去にお腹に銃弾を受けられ、また最近ではパーキンソン病などの病気と闘っておられます。教皇様は社会の高齢化にあたり、高齢者を排除するのではなく、高齢者との共生をめざすことを説かれています。四旬節には、私たちは(1)祈り、(2)犠牲、(3)施し(愛の献金)の三つの場を通して神に近づく努力を行いますが、今年の愛の献金は高齢者のためにも使われます