四旬節第5主日(A年)2005年3月13日(イエズス会・イバニエス神父様講話)

今日の福音(ヨハネ11・3−7、17、20−27、33b−45)は大変長いので、聖書を読みながらわたくしのお話をしていきたいと思います。皆さん着席して黙想ください。

今日の福音の箇所は、イエスが親しくしていた友人のラザロの死、そしてその姉妹からの要請によりイエスがラザロの家を訪問し最後にはラザロを蘇らせるまでのお話です。このお話のポイントごとに解説を加えていきたいと思います。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(11−5) ここで私達が注目したいのは、イエスが自分の愛する人たちに対して、わかりやすくはっきりと愛を示しているということです。現代社会に住む私達は、他人への愛を示すことについて、極めて慎重かつ控えめです。間違って愛を示すことにより自分自身が傷つくことを恐れるのです。みなさん、クリスチャンであれば心の中で愛情・好意をもっている人に対し、臆することなく正しく丁寧にあらわしましょう。

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11−25) これはイエスの基本的な問いかけです。これは聖書の物語ではなく、直接神様から私たちへの真正面の問いかけなのです。私たちは神様のこの問いにどのように答えていくのでしょうか。

「イエスは涙を流された。」(11−35) イエスは友人ラザロの死について、心底悲しみ、いきどおりました。イエスは神様だけでなく人間でもありましたので、人間の持つ一番すばらしい面・素質を示しています。私たちは、イエスのように他人に対して心の底から喜んだり悲しんだりするでしょうか。わたくしの感想ですが、かつて日本民族はとても人間的かつ親しみやすい人たちであったと思います。しかし今やすべてがコンピューターで高度に管理され、人間の中にあるはずの豊かさを見ることは随分難しくなってしまいました。経済的な豊かさと引き換えに人間的な豊かさを損なっていないでしょうか。

「しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。」(11−37) この冷たい目でみる冷ややかな観察者をみてください。現代の私たちの姿そのものです。ものごとを悲観的にとらえ、他人を非難の目で観察する...。社会が高度に複雑になればなるほどこのようになっていく傾向があるのではないでしょうか。私たちは、このように人から距離をおく冷ややかな観察者であってはなりません。私たちは暖かい目で人を見つめ、積極的に自ら人とかかわっていくのです。

「(イエスはこう言ってから、)「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」(11−43) さてここでいうラザロには二つの意味があります。表の意味としては、もちろん当時存在したラザロという名前の男性です。しかしもう一つの裏の意味としては、ラザロは私たち自身を意味しているのです。人間的な豊かさをあらわすことができなければ、私たちは自分の狭さ・暗さという「墓」に閉じ込められ、死んだも同然です。イエスが「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、手足を布に巻かれたままの死者が蘇り歩いて出てきました。これはまさに、回心の呼びかけに応え自分の持つ人間の豊かさに気づいた私たちが、「死んでいた状態」から「生き返った」ことを意味します。人間的豊かさを損ない死んだも同然の状態であったとしても、イエスの力強い呼びかけに応え、私たちは、包帯を巻いた死者が歩き出すように劇的に、回復することができるのです。

「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(11−45) 信仰を持ち、いきいきと生きはじめた私たちをみて回りの人も変わっていくことができます。主イエスの死と復活を迎えるこの四旬節にあたって、私たちは自分の心の中で死んでいる部分はないか反省し、もしあったならば再生させるようにいたしましょう