復活節第2主日(A年)2005年4月3日(日)

(第一説教)
現在のこのごミサの名前ですが、初代教会ではギリシア語でユークリスチア(感謝)という言葉を使っており、さらにその前は単に「パンを裂く式」といっていたそうです。このように...(パンを割り裂く)昔からカトリックの神父はパンを割って裂き、そして共同体全員と分かち合ってきたのです。 いうまでもなく、これにはとても深いシンボル的な意味、イエスはご自身を私たち皆と分かち合ってくれる、そして私たち共同体も深い一致を成し遂げる、といった意味があります。 この命のパン、ご聖体をいただいた私たちは深いところで繋がった同じ仲間です。 自分の時間、自分の都合は誰にとってもとても大事なものです。 しかし、この自分の時間、自分の都合を犠牲にして、自分を他の仲間達とわかちあいましょう。 アッシジの聖フランシスコの平和の祈りにあるとおり、 私たちは「人のために命を捧げることによって永遠に生きる」のです。

(第二説教)
今日の「聖書と典礼」には今日は「神のいつくしみの主日」とあります。カトリックでは「慈しみ」はよく使われる言葉ですが、はたしてその意味は何でしょうか。

ケンズ個人の意見ですが、葬儀でよく歌われる聖歌657番「いつくしみふかき」、これは大変美しい歌ですが、もう少し、色・味をいれることができればと思います。神様の深い慈しみ、これを具体的に思い起こすことです。では、具体的に神様の慈しみとはどんなものでしょうか。聖書を見てみましょう。

例えば、ルカ24章(復活に驚くマグダラのマリア)、ヨハネ20章(復活をなかなか信じない弟子トマス)を見てみましょう。イエスの人間としての死に悲嘆にくれていたマリアに対し、イエスは実際に復活した自らをみせることで信仰の目を開かせています。また信仰が浅く、弟子たちの共同体のなかでやや浮き気味であった弟子トマスにも、自らを見せて復活の事実を示しています。復活について、実際に目で見るまでは信じることができなかったマリアとトマス。復活を信じなかったことについて咎めることもせず、イエスはとてもやさしくありのままに二人を受け入れ、ご自身を示されています。これこそイエスの「慈しみ」の具体的な例です。イエスはこのように人間的な弱さを理解してくださるのです。

私たちイエスを信じる者はこのような慈しみを味わい、また他の人に慈しみを与えることができます。

聖歌657番「いつくしみふかき」(2番)
いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りてあわれむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん

私たちの日常は普段、雑音ばかりの大変忙しい毎日を送っています。 皆さん、どうかたまには時間をつくり、聖書を読み祈ることで、神様との交流を持ちましょう。神の慈しみはまず神様から与えられます。今週はヨハネ20−21章をじっくり味わってみましょう。

イエスの”死”を嘆いたマグダラのマリア、証拠を見せられるまで復活を信じようとしなかったトマス、そしてイエスを一晩に三度も否んだペトロ、これらは昔の人たちではありません。自分の薄い信仰を認めましょう。そして祈りにより、目を開いたトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と叫んだように、私たちも真に神に出会いましょう。