復活節第3主日(A年)2005年4月10日(日)

先週の日曜日の朝、ヨハネパウロ2世教皇様が亡くなられました。教皇様の晩年は病との闘いでありました。そのような中、昨年10月に「聖体の年に関する使徒的書簡」を発表されましたが、これが実質的に教皇の遺言となりました。その書簡の中で教皇は「私達の疑い・困難の中でイエスは現れ、希望と励ましを与え、そして一緒に旅人として歩んでくださる。」とおっしゃっています。これこそイエスご自身がご自身の死と復活の秘蹟によって示してくださった現代に生きる私達へのメッセージです。
今日の福音(ルカ24・13−35)はこの教皇の最後のメッセージをもっともよく表している部分で、皆さんにもよく味わって欲しい箇所でもあります。

イエスの死後、二人の弟子がエルサレムから去っていく夕暮れの道で、イエスは同じ道を歩む旅人として姿をあらわします。イエスと気がつかない二人に対してイエスは聖書全体を説明し、そして同じ宿でパンを取り賛美を捧げ割って二人に与えたのです。その瞬間、「二人の目が開け、イエスだと分かった」が、イエスの姿は消えてしまったのです。

「イエスの死」に落胆し暗い顔をしてエルサレムから去っていく二人に、イエスはその姿をお見せになります。この落胆する二人へのイエスの働きかけは、弱さを持った私達普通の人間と神とのかかわり方を、よく示しています。イエスと出会った後、二人が復活を信じ他の人たちに伝えるようになるまでの展開は、私達と神様との関係のありかたをよく示しており、それゆえ毎週のミサの中で繰り返し再現されているのです。

「ああ物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(24−25)
これはミサにおいては「回心の祈り」で、まず私達の信仰の薄さを認めるものです。

「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(24−27)
これは「み言葉の祭儀」にあたり、神の言葉を確認します。

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24−30)
パンがご聖体となる聖変化であり、私達の「目を開く」ものです。

「...わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして時を移さず出発して...」(24−32)
これは派遣・宣教の決意宣明で、閉祭の儀で行われるものです。

さて私達はこのエマオへの道の二人のように、イエスと出会うことができるでしょうか。それにはまず祈りと聖書を読むことが必要になります。聖書を読むときには、神のみ言葉が自分自身に入ってくるように、観想的な沈黙と敬虔な姿勢が必要です。聖書を読む時には、はっきり、ゆっくり、噛みしめるように読みましょう。教皇様は「教会で聖書を朗読する時には、語る方はイエスご自身です」と言っておられました。聖書を通して、あなたの人生の同伴者であるイエスを今一度発見してください。

主イエスキリストは今生きておられます。