主の昇天(A年)2005年5月8日(日)

今日は主イエスの昇天の祝日です。イエスはイスラエルの地で33年の生涯を終えただけではありませんでした。この昇天、人間であることを経験なさり天にお戻りになったこの昇天のおかげで、今保土ヶ谷の皆さんの心にイエスがあるのです。今日の第二朗読で、イエスが昇天の後、神ご自身の右の座に着いた(エフェソ1・20)とありますが、これはイエスが人性を経験したのちに、神性に戻られたことを意味しています。右の座、すなわち神そのものになったということを意味しています。神でありながらも人間であった経験を持つ神様は私たちのことをとてもよく理解してくださいます。

今日の福音(マタイ28・16−20)にあるイエスの言葉、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これはとても優しい、また力強い言葉です。そしてパウロの手紙(エフェソ1・17−23)にあるように、主イエス・栄光の源である御父が、知恵と啓示を与えてくださるのです。ここでいう知恵とは頭の知恵ではなく、「心の知恵」とでもいうものです。物質的な知恵は、物質的なことに追われ忙しい日々を過ごす私たちの問題解決には役立ちません。父なる神は御子イエスをこの世につかわしてくださいましたが、このイエスそのものが啓示です。イエスは私たちの喜びの源、人生の意味、希望の源です。 私たちが聖書を読むとき、「上からの光」が必要です。祈ることによって、私たちがこの「上からの光」に照らされるように、神に祈りましょう。聖書を読む時は、学問的・神学的に読むのではなく、「神様を心の中に経験する」ようにいたしましょう。「心の目を開き、」(エフェソ1・18)、神様と親しい心の交わりをいたしましょう。私たちはまだ、ピンときていないのです。聖書にあるように、道端の盲人が「主よ私を憐れんでください!」と叫んだように、心の目を開くように祈りましょう。イエスは盲人を癒したように、私たちの心の目をひらいてくださいます。イエスの優しい言葉「疲れたもの、重荷を背負うものは、誰でも私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」は神のお招きの言葉です。神の力によって眼が開くように、神の力によって悟るのです。孤独な、一所懸命な努力はいらないのです。全世界に働く神の力、この力を信じ、どうぞ開かれた心をもって神との心の交わりを持ってください。

かつて3年にわたり保土ヶ谷教会の主任司祭でもあったデイキン神父様が、金曜日に突然ご帰天されました。神学校での私の同級生であり、同じ修道会にて56年間共に日本で働いていたとても親しい仲間でした。最後までとても元気で、実際水曜日には一緒に夕食をとり、次の大きな旅行のプランや今年迎えるはずだった叙階50周年のことなどを話していたところでした。金曜日の夕食中、突然眠るように亡くなられたのです。彼はオーストラリア・ビクトリア州の必ずしも裕福とは言えない田舎に生まれ、14歳で郵便配達、17歳で海軍に入り、そして24歳でカトリック司祭を志したのです。学究肌ではありませんでしたが、彼こそ「心の知恵」を持ち、常に「もてなしの心」をもって人と交わっていきました。デイキン神父様の死はとても悲しく残念でありますが、同時にとても希望があります。なぜならば彼は神の永遠の栄光にうちに入っていったからです。「私はいつもあなたがたと共にいる。」このイエスの言葉をあらためてかみしめたいと思います。