年間第12主日(A年)2005年6月19日(日)

「神よ 深い渕から あなたに 叫び
嘆き 祈る 
わたしの声をきいてください」(詩130)

今日入祭の時に歌った「ごらんよ空の鳥」は、人気のある聖歌です。この歌の歌詞は、必ずしもすべてが順調でない時にも、神様を信頼することにより得られる安心感を歌っています。

私たちの神様が私たち一人一人を優しく見守ってくれている、そして私たちをありのままに受け入れてくれる、という事実は私たちの祈りの土台です。

人は苦境に陥ると神に祈ります。日本でも昔から「苦しいときの神頼み」とやや揶揄されています。キリスト教では、「苦しいときの神頼み」はまったく構いません、いいことです。もっともこればかりでは残念ですが(笑)。

私たちは人間ですので、弱く、罪を犯しやすくまた自ら問題を招いたりして、苦境に陥ることがあります。このような時に神に祈り、神の助けを請うことはとても自然なことです。この祈りの時に、私たちは丁寧な「着飾った心」で祈ってはいないでしょうか。苦しいときの祈り、助けを請う祈りは丁寧である必要はありません。ありのままの自分をさらけだし、本当の自分を神にみせる必要があります。

このことに関して、イギリスのブルーン大司教が「祈りの学校」の中でつぎのように言っています。

祈りが的をはずれるわけ

私たちの祈りがよく的をはずれるわけは、
私たちが神のみ前に出ようとするとき、あるがままに
出るのではなく、自分自身がこうあるはずだと思う
姿として出ようとするからです。

又は神は私たちがこうあるべきはず、
つまり善良な人として出ると思っておられると、
私たちが思い違いをしているからです。

神は私たちがあるがままにあってほしいのです。
つまり、弱い、罪深い人間のひとりとしてです。

果たして私たちには、このように神から
受け入れられたこと自体、受け入れるだけの勇気が
あるでしょうか。

とても深い点をついている言葉です。今週もう一度よく読んでみましょう。神でありながらも人間でもあったイエス、イエスですら「父よ、父よ、どうして私をお見捨てなるのですか」と悲しみの祈りをなさったのです。イエスは、私たちとまったく同じように、悩み・苦しみ・痛み・恐れ・空虚な気持ち・見捨てられた気持ちなどをご自身で経験し、それらをよく知っておられるのです。

悲しみ、嘆き、悲嘆の祈りといえば、今日の旧約聖書でもあるエレミアの哀歌が最も知られています。人間の世界での失敗の時に、よく祈られています。皆さんも、誰かがもし悩み・苦しみを経験しているのであれば、この祈りをささげましょう。

哀歌の祈り方は次の四つの段階からなります。

最初の歩みは、私たちが神様に自ら近づくことから始まります。旧約聖書、哀歌130番にあるように、「神よ苦しみのどん底・最低にある私からの祈りを聞いてください」と祈りましょう。

次に自分の内の苦しみをありのままにさらけだしましょう。きれいな言葉でなく、自分の言葉であらわしましょう。神様にとって自分のありのままの言葉でしゃべることは、決して失礼なことではありません。

そしてイエスの御言葉を思い出しましょう。「恐れるな私はあなたのそばにいる」というイエスの力強い希望の言葉です。暗闇の中にさまよう自分であっても、終わりのない夜はなく、曙のなかに光る星のように、やがて光に包まれるときがくるのです。

最後に、「前もって感謝する」ことです。神様からの愛に本当の意味で気がつくことができれば、目前の悩み・苦しみなどはすべて相対的なものに過ぎないと感じられることでしょう。目前の悩み・苦しみがそれぞれ解決・解消するしないにかかわりなく、神の愛に対して前もって感謝いたしましょう。