年間第13日(A年)2005年6月26日(日)

「暖かいもてなしは
キリスト信者の
特徴です。
私は?」

聖書に書かれているイエスの言葉を、杓子定規に表面の文字通りにとらえると、本質を見失うことがあります。
今日の福音(マタイ10・37−42)も、そんな部分があります。
「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも、わたしにふさわしくない。」、「自分のために命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである」、ということはどういう意味でしょうか。

実は、これらの言葉、次の三つの点をよく理解していないとよくわからないと思います。

まず第一の点として、奉献の考え方です。「イエス様が一番」という聖歌のとおり、自分の全てを父なる神にささげる奉献の心は信仰生活の基礎です。しかし、その奉献の中で、父母、息子娘との絆はさらに大きく、さらにしっかりしたものになっていきます。

そして第二の点として、自分への救いの考え方です。「自分のために命を得ようとする」とは自分自身だけのために自分一人であくせくする、ということを言っています。このお御堂に掲げられている14枚のレリーフ、十字架の道行きはイエス様の歩んだ苦しみの道行きを表しています。わたくし達が困難にぶつかるとき、私たちはその苦しみ・悩みに決して一人ぼっちで悩んでいてはいけません。必ずイエス様と一緒、二頭立ての馬車で立ち向かっていかなければなりません。

そして第三の点として、暖かいもてなしです。
49年前、私が初めて日本に赴任した時、その時はまだテレビが無い時代で、教会は電話がある数少ない施設でした。赴任先は必ずしも豊かとは言えない漁村でしたが、村の人々には大変あたたかい交わりがありました。皆で協力して行う田植え、魚市場の喧騒、八百屋の前でのいつ終わるともしれない立ち話...。そのような時代は終わりました。いまの時代は、自分一人一人のプライバシーのために厚いな壁をめぐらし、複雑で頑丈なオートロックをつけたマンションのようです。暖かい交わりが難しくなっています。

遠藤周作が「イエスの生活」の中で言っているように、イエスはさびしさを体験しました。今の日本社会で寂しさに苦しんでいる人は多いと思います。イエスもそのような寂しさを持っていましたが、ラザロ・ルコ・リアなどから暖かいもてなしを受けています。皆さん、私たちはどうでしょうか。

難しい人、気の強い人、意見の強い人...。私たちは人間ですから、様々な人たちがいます。難しさを強調しないようにしましょう。人によって性格は違います。そしてそれは健康的なものです。神様はつまらない私をありのままに受け入れてくださいます。では、私たちは私たちをどのように受け入れるのでしょうか?

今、日本の学校では、残念ですがいじめは非常に多く、子供の自殺も後をたちません。みなさん、このいじめは学校だけの話ではありません。大人の社会の中では、間接的ではありますが、もっと陰湿な形のいじめがあるのではないでしょうか。もし自分の職場や地域のなかで、寂しそうにしている人がいたら、暖かいもてなしの挨拶を自分からいたしましょう。

「暖かいもてなしの心」は教会の建物の中だけの話ではありません。もっとハッキリ言うと、たとえば車の運転はどうでしょう(笑)。相手のために優しく運転する、相手を思いやって運転する...。わかってはいるのですが、イライラしている時は、つい自分も荒い運転になったり意地悪になったりしませんか。

私たちが暖かいもてなしをすれば、それは必ず報いを受けます。アッシジの聖フランシスコの祈りにあるように、人のために生きることによって、私たちは心の平和を得ることができるのです。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さなものの一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(新共同訳 マタイ10・42)

私たちの肉体はいずれ塵に戻ります。その時、天国の門にイエスは立っておられ、「おかえりなさい」と私たちを出迎えてくださいます。その時、私たちは、イエス御自身から暖かいもてなしを受けるのです