年間第15日(A年)2005年7月10日(日)

「私の心の土は
種を育てることが
できるでしょうか?」

私の母国はニュージーランドです。一時帰国すると母国の人々から
「なぜ遠い日本に行っているのですか?ニュージーランドでも今は神父様が不足しています」
と言われることがあります。
実はこの質問はよくあるので、わたくしはいつも次のように答えるようにしています。
「日本ではクリスチャンは人口の1%しかいません。わたくしは神の指名によって喜びと希望の種を日本に播きに行っています。私は、この種まきの喜びを神とともに分かち合いたいのです」、と。
この使命感・充実感・熱意といったものは常に一定ではなく、ある時には鈍くなったりうつろな気持ちを味わうようなこともありました。
まだ教会の基礎が固まっていなかった初代教会の人々も困難の連続でした。初代教会の信者達は、たとえ話を使って自らの改革・改善のために深い反省を行いました。これらは私の言葉でいえば「心の反省」、「良心の救命」、「心の棚卸し」といったもので、こうした深い反省を通じて新しい出発を行うことができたのです。
今日の福音(マタイ13・1−23)はイエスによる有名な「種まきのたとえ話」ですが、わたしたちに次の四つの質問を投げかけています。

(1)自分の「信仰の種」は、固く踏み固められた道の上に落ちてしまったのでしょうか?
本当にそうでしょうか? 少なくとも今イエスの話を聞いているということは、道路ではなく畑の土の上に落ちたということでしょう。実はその場所は、とても豊かな土なのではないでしょうか。ただ、イエスの言葉がしっかりと「心の耳」にはいっているでしょうか。「心の耳」が詰まると、イエスの言葉は単なる知識・学問となってしまいます。そして「心の土」は干からびた、道ばたの土のようになってしまうのでしょう。

(2)自分の「信仰の種」は、石だらけの土が少ないところに落ちていませんか?
イエスの言葉は聴こうとしていますが、イエスの言葉の美しさ・甘さのみを受け入れているため、「苦しみ」に出会うとたちまち信仰が揺らいでしまう人がいます。イエスの十字架の苦しみと向かい合いましょう。自己中心的な自己憐憫と決別し、自分の苦しみを通して隣人と愛を共感する。簡単ではありませんが、可能なのです。苦しみの時こそ、本当の祈り、「叫びの祈り」を通して神を近くに感じる時なのです。

(3)自分の「信仰の種」は、いばらの中、雑草の中に落ちてしまっていませんか?
この雑草とは、物質万能時代での富、世俗的な誘惑を意味するのでしょう。わたくしたちは生きていくのに現代社会と相応の折り合いを付けていかなければなりませんが、表面的な華やかさに幻惑され、日常の忙しさに負け、あるいは一面的な意味しかない競争が全てと誤解し、自分自身を見失っていないでしょうか。忙しくなればなるほど「祈り」は大事です。

(4)自分の「信仰の種」は、良い土地に落ちているでしょうか?
石を取り除き、雑草を抜き、肥料をいれ、よく耕せばよい土となります。私たちの「心の土」も同じことであり、手入れが必要です。一言で言えば、祈り。イエス様と親しいつながりを持つという意味で、祈りは絶対に必要です。少なくとも、朝・夕、簡単で自分の言葉で結構ですから、静かな場所で祈りの時間を持ちましょう。聖書などを読む、霊的読書ということも大事です。自分の信仰を大切にし、信仰の希望・喜びをしみじみと味わい、これを自分の隣人とともにわかちあう、これこそが明日への希望そのものです。「現代日本社会の最大の危機は「希望」がないこと」(大江健三郎)と言われていますが、わたくしはイエス様は常にその回答を私たちのために用意してくださっていると思います。