年間第20日(A年)2005年8月14日(日)

「神の母聖マリア
今も死を迎える時も
わたしたちのために
祈ってください」

(ケンズ神父訪欧中のため、熊木建郎神父(横浜教区、南山大学教授)がミサを司式されました。)

本日の福音(ルカ1、39−56)で「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と言っています。乙女マリアが処女のままイエスを身籠り、そのうえで神への信頼・感謝・謙遜を明らかにした、有名な「マグニフィカート」と呼ばれる部分です。ラテン語でマグニ(拡大する)フィカート(形成する)、日本語では「大と為す」と言いましょうか、このマリアが神への崇敬を宣明する場面は、新約聖書の中でも最も文学的に美しいものの一つです。

福音というものは「神が人間に対してしてくださることを、いつの時代にでも信じなさい」という喜びのメッセージであり、新聞の報道記事のような文章ではありません。従って文脈・本質的な意味が重要であり、細部について拘泥する必要は必ずしもありません。

この「マグニフィカート」の中で私たちが特に注目したいのは、乙女マリアの神への崇敬です。当時のユダヤ人社会のなかで結婚前に子供を身籠るということは、現代の私たちが想像できないほど重大な意味をもっていました。そしてその子供が「この世の救い主である」と天使から告げられる...。若いマリアにとって、これらの出来事は完全に自分の理解力の範囲を超えたものでした。おそらくマリアも最初は戸惑い、悩んだことでしょう。しかし神へのあくなき信頼・感謝・謙遜により自分の理解を超えた事柄も受け入れることができたのです。このことにより乙女マリアは「神の母」として西方教会でも東方教会でも崇敬され、天国において神へのとりなしをしてくださる私たちの母として、信仰の対象となっています。

二千年前のイエスの時代から21世紀の現代まで人間は神の言葉を捜し求めてきました。福音を信じ、それを毎日の暮らしに反映させようと努力する私たちにとって、「マグニフィカート」の意味とは、神へのあくなき崇敬とそれによる悩みからの解放、ではないでしょうか。現代に生きる私たち、日本人として、またカトリック教徒として悩みは非常に多いはずです。また急速に変化していく社会にあって、自分の理解の超えた事態の連続に戸惑っている方もいらっしゃることでしょう。しかし、悩みは不健康なことではありません。深い悩みに捕らわれたときこそ、乙女マリアの謙遜、神への信頼、「マグニフィカート」を思い起こしましょう。

自分の理解を超えた事態にいきあたっても、乙女マリアのように謙遜に「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と信ずることができればどんなにすばらしいことでしょうか。どんなに悩みが深くとも、私たちは天におられる「神の母」マリアに神へのお取次ぎを願うことができるのです