年間第23日(A年)2005年9月4日(日)

「和解はイエス様の道です」

(グンテル助祭説教)

本日の福音(マタイ18:15-20)では、イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯した」場合について語っています。この中でイエスは、もし人が罪をおかしたとしても、私たちはそれを「裁く」べきではなく、むしろその人をできるだけ私たちの共同体の中へ引き戻す努力をすることがまず大切である、と言っています。

私たちはとかく自分には優しい一方、他人に対しては厳しく裁きがちですが、イエスはこれを戒めています。神と異なり、本源的には私たちは人を裁くことはできません。私たちの神はとても憐れみ深く、心から神のゆるしを乞えばかならず許してくださる方なのです。私たちの役割は神に替わって人を裁くことではなく、兄弟姉妹が悪い道に踏み込んでしまったとしたならば、そこから何とか私たちの共同体に引き戻そうと努力することなのです。そんな私たちの努力を、神はとても喜び、またそれゆえ私たちが犯してしまう過ちについても寛大に許してくださるのです。

神はご自身が私たちに憐れみをくださる一方、同じようなゆるし・忍耐・理解を私たちが隣人に与えるよう強く求めています。もっとも神と私たちの関係と異なり、人間同士の関係には限界があります。努力だけでは解決に至らない場合もあります。このような時には、わたしたち信者はまだ、できることがあります。それは祈りです。
神の恵みを信頼し、私たちが人をゆるすことができるよう、さらに理解しあうことができるよう、祈りましょう。

私事ですが、メキシコにいた際に刑務所を訪問したことがあります。自らの罪を本当に悔やみ、判決を心から受け入れている囚人が少なからずおりました。この人は本当に回心している、と思われる人もおり、このような人たちとは私は単に兄弟姉妹でしかない、真の意味では人は裁判官にはなりえないと思ったものでした。

私たち信者は、人の罪を指摘し安易に裁くことよりも、むしろ人と人の壁を乗り越え、平和と和解の道具となるように努力するものでなければなりません。困り悩む兄弟姉妹を助けるのが私たちなのです。

「二人でも三人でも、私の名によって集まるところに、必ず私はいる」とイエスは言っておられます。心をひとつにして祈るとき、どんな願いもきいてくださると約束されているのです。自信を持って神の恩寵を信じ、私たちが人をゆるし互いに理解しあえるよう願いましょう