年間第25日(A年)2005年9月18日(日)

「慈しみ」

今日の第一朗読(イザヤ55・6−9)は、これが書かれたのが2,600年前とは思えないほど現代の人間の心にピッタリくる内容です。紀元前587年、バビロンの軍勢はユダヤ軍を打ち負かし、エルサレムに入城しました。そしてユダヤの神殿は徹底的に破壊され、すべてのユダヤ人は捕らえられ、奴隷として遠くバビロニアに「拉致」されてしまいました。有名な「バビロン捕囚」の故事です。奴隷となったユダヤ人達は絶望のどん底のなかで、「これは神からの罰だ。我々が神を捨てた罰として、神も我々を見捨てたのだ」と思いました。この時、預言者イザヤは、「いや、絶対にそうではない。神の考え方は人間とは違う。神の慈(いつく)しみは永遠である。」と人々に宣言しました。

さて皆さん、自分の生活を考えてみましょう。私達は時として、大きな苦しみ・悲しみに直面し、そのどん底のなかで這い回ることがあります。そのような時こそ、私達は神の慈しみを感じることができ、その慈しみを希望としてその苦しい時期を乗り越えた時には、神の慈しみは実に永遠であると思うでしょう。

今日の答唱詩篇では「神の慈しみ」という言葉が三度でてきます。聖書を理解するうえではこの「慈しみ」という言葉はとても重要ですが、果たして私達信者はこの言葉を本当に理解しているでしょうか?うわべだけ、字面だけでわかったつもりでいるかもしれません。しっかり心にはいっているでしょうか?

では、今日の福音(マタイ20・1−16)を見てみましょう。朝一番に雇われて日没まで懸命に働いた者に1デナリオの賃金、日没ちょっと前に雇ってもらい1時間くらいしか働かなかった者にも同じ1デナリオの賃金。普通に考えれば不公平、びっくりするような話です。みなさん、これは雇用と賃金についてイエスが具体的に教えている訳ではありません(笑)。たとえ話として、皆さんに深く考えるよう促すものなのです。

まず神の思いは人間のそれとは違うことを認識しましょう。当時のファリサイ派の人々、神の典礼的な教えに通暁し自らにも厳しい制約を課し、自他とともに「神のエリート」として振舞っていた人々、これらの人々は他の人より神の恵みをたくさんもらえると思っていたことでしょう。こうした考えに対して、イエスははっきりと「NO」と言ったのです。

みなさん、今日のたとえ話は実は労働者の給料とは全く関係ありません。なぜなら、私達は全員、夕暮れ間際になんとか雇ってもらった幸運な人たちにあてはまるからです。自分自身の弱さ・至らなさ・みじめさに絶望せずに、それらを完全に理解し受け止めてくださる方がいることを強く思いおこしましょう。その方、私達の神は、私達が努力をすることについて「遅すぎる」と突き放すことはないのです。これが神の慈しみです。

カトリック聖歌667番「いつくしみふかき」(2番、3番)

慈しみ深き友なるイエスは 我等の弱きを知りて憐れむ
悩み悲しみに沈める時も 祈りに応えて 慰め給わん。

慈しみ深き友なるイエスは 変わらぬ愛以って 導き給う
世の友我等を 捨て去る時も 祈りに応えて 労わり給わん。

今週中、この「慈しみ」の意味を深く考えてみましょう。神の「慈しみ」を悟ることができたならば、私達の毎日の暮らしがとても面白い、味のあるものになります。いままでこだわっていた悩み、怒り、苦しみから解き放たれ、神の慈しみを味わいつつ真に人間らしく自由に生きることができます。神でありながら人間でもあったイエスは、全能の神でありながらも、貧しい未亡人に心から同情し、友人ラザロの死に涙しました。神が事情を完全に理解してくださりそのうえで強く愛してくださる、という実感を得ることができたならば、私達の暮らしはどんなに変わることでしょう。

神の慈しみを味わい、そしてその理解を深化させることができるように祈りを続けていきましょう。