年間第28主日(A年)2005年10月9日(日)

イエスの食卓に
招かれた者は
幸いである

今日の福音(マタイ22・11−14)には二つのたとえ話がありました。ひとつは、ある王様が王子のために婚宴を催したのですが正式な招待を出した招待客が忙しいなどと言って来なかったので、新たに往来に居る一般の人々を呼び入れて宴席を満たしたという話でした。もうひとつは婚礼の席で礼服を着ていない参列者を王が側近に命じて宴席から追い出した話です。

先週は二人の赤ちゃんの洗礼式がありました。洗礼を赤ちゃんに授けながら、わたくしは70年前に自分自身が授かった洗礼、そして初聖体、堅信、叙階と続く、私が神様からいただいた恵みについて考えていました。これらの恵みは神様からいただいた、信仰への招待状でした。そしてその後、わたくしの人生の危機ともいえる病気の時や、あるいは毎年の黙想会の折にも、私はこの招待状をいただいています。

聖書では食事にかかわる言葉が多く使われています。今日の聖書でも、「祝宴」(イザヤ25・6)、「会食」(詩篇23・2)、「婚宴」「食事」(マタイ22・3−4)など多くの言葉が使われています。これら、共にする食事は、神との「交わり」を意味しています。神と人間は一緒に食事をして暖かい交わりを持つのです。私達と神とは、今のこの世での交わり、来世での交わり、とあるのですが、私達はこの交わりをどのように捉えたら良いのでしょうか。今日の第一朗読では、とても美しい文学的な表現で、神は私達人間の苦しみの涙を優しくぬぐってくださる、と表現されています。

この神との交わりの性格を知っている私達は幸せです。なぜなら人生の意味・目的地を知っているからです。それゆえ私達は人生の日々を目的をもって歩むことができるのです。それも決してひとりぼっちでの歩みではない、イエスという人間であることを経験された方と共に、イエスと手をつないで一緒に歩いていくことができるのです。

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4・13)

この意味で、私達は大変恵まれていて幸せなのですが、実は私達はそれがどんなに恵まれているかを悟っていません。今日の福音のたとえ話は、形式にとらわれ神の愛を実践しない当時のユダヤ教指導層への痛烈な批判です。神から最初に信仰への招待状が出されているにもかかわらず、それを無視したりあだで返したりする..。これは当時のファリサイ人に限ったことではなく、現代の私達にも心当たりがあることではないでしょうか。せっかく神の食卓に招かれているにもかかわらず、それに義務的に習慣的に参加しているだけに過ぎないということはないでしょうか。神との交わりを生き生きとしたものにするために、神への祈りと共同体への参加・隣人への愛が必要です。

現代に生きる私達は、毎日大変忙しい日々をおくっています。しかしどんなに忙しくとも、皆食事はとっています。なぜなら食事をとらないと死んでしまうからです。同じように、心の食事、霊的食事についてはどうでしょうか?忙しさに負けずに、心の栄養のために祈りと奉仕を捧げましょう