王であるキリスト(A年)2005年11月20日(日)(グンテル助祭講話)

私の兄弟であるこの最も
小さいものの一人にしたのは、
わたしにしてくれた
ことなのである

来週からは待降節、新しい典礼暦がはじまりますので、今週は今年の典礼暦の上では最後と言えます。
最後にふさわしく今日の福音 (マタイ25・31−46)はこの世の終末と王であるキリストについて述べられています。この中でイエスは弟子たちに、終末に向かって「行いによる準備」を強く勧めています。今日の福音はつぎの四つのポイントがあると思います。
1)この世の終末が訪れる時、栄光に囲まれたイエスが再臨する
2)その時にすべての正義と不正義が明確にされる
3)正義を行った者には報いが与えられる
4)不正義を行った者には裁きが与えられる
皆さん、この教えは決して信徒の間に恐怖心を植えつけようとするような意図ではないことを申し上げたいと思います。まず、この聖書が書かれた時期は、原始キリスト教の迫害時代であり、厳しい環境の中で神による救いと解放が来ることを願っていた時代でありました。この終末の到来と裁きの今日的な意味は、我々信者が神からの呼びかけに対して、果たして日常の中でどのように応えているか、という神からの回心のよびかけです。今を実際にどう生きるか、という問いかけです。

終末が訪れ、王であるキリストは、ある人達を「私が渇いているときに飲ませず、飢えていた時に食べさせず、裸の時に着せず、病気のとき牢にいたときに訪ねてくれなかった」と咎めています。咎められた人達が驚いて、いつそのような無慈悲なことをしたかと反論すると、王であるキリストは、「この世で最も小さいものの一人に対してしなかったことは、私にしてくれなかったことなのである」と言いました。

この咎められた人たちは、キリスト教のうわべの信仰としては何も悪いことはしていなかったはずです。ただ、信じたことを実行できなかっただけ、形だけの信仰であったのです。イエスと日常の暮らしは切り離されしまっていたのです。

皆さん、イエスは困っている人の中にいるのです。お礼を返すことができない人々を助けることは、彼らの中にいるイエスを助けることなのです。報酬・見返りを期待できない慈善活動を通じて、私たちは私たちが普段無視している現実・現状に出会います。慈善活動を通して私たちはイエスの教え、「与えるほうが、もらうよりも多く受け取る」という真理の恵みにあずかることができます。

病人を見舞ったり、刑務所の人を励ましたり、あるいは外国人や社会の弱者とならざるを得ない人々を支える...。愛は言葉と行いを通して現われ出るものなのです。困っている人々への愛は実践により現われ出ます。

今日の福音の箇所は、マザー・テレサが「聖書の中で一番好きな部分」とある記者に答えたことでも知られています。もちろん、私たち皆がマザー・テレサのようにはなれません。しかし、いつでも、どこでも彼女がしたことの一部をすることはできるのです。同情の心、慈善の心、寛容の心...これら最も美しい神様からの贈り物を大切にし、実際の毎日の暮らしにあきらかにしていくことこそが、イエスの証し人であることなのです。私たちの信仰は、日常生活での行いを通して立証されていくものなのです