2007年1月21日 年間第3主日(C年)

毎回のミサの中で、私達は「言葉の典礼」、つまり聖書朗読を行います。第二バチカン公会議で述べられているように、「特に教会において聖書が読まれるときに、イエスは現代に生きる私達に直接語りかける」のです。聖書は我々への神のメッセージであり、その深い意味を理解するには神の助けが必要です。聖書を聞くときには、私達は常に「このメッセージは現代に生きる私達に、今どのような意味をもっているのだろうか」と耳を澄まして聞く必要があります。なぜなら、聖書は私達の日常の生活を助けるための神のメッセージであるからです。さて、こうしたことをふまえて、今日の聖書をみてみましょう。

第一朗読は紀元前600年頃の旧約聖書の一場面です。バビロン捕囚からエルサレムに帰ったばかりのユダヤ人は、荒れ果てたエルサレムや神殿をみて、これでは再建は不可能だと落胆しました。しかし祭司エズラが聖書を読むと、人々は気を取り直し、とても力強く励まされた気持ちになりました。聖書を通じて神が語りかけるということは、現代においてもかわりはありません。

第二朗読では、パウロが寓話を用いている様子が描かれています。すべての教会、共同体は大小さまざまな才能を持った人々の集合体です。異なる機能を持つ人体の各器官がひとつの体として動いているように、わたしたち教会、共同体に属するひとびとが統一をもって働けるようにいたしましょう。どうか決して「わたしは無能である」などと言わないでください。私がかつて勤務した教会では、ある婦人がご自身のことを足の小指だとおっしゃっていました。しかしその方は教会の洗面所の八箇所のトイレットペーパーが切れないようにするという責任を負ってくださっていたのです。高齢あるいは健康のため、活動はもう無理というかたもいらっしゃるかもしれません。しかしそのような方でも、皆のために祈ることができるという点で、教会にとって最も貴重であることにはかわりはありません。

あなたはご自身が貧しいと感じられていますか?物事を成したり、覚えていることが難しくなったとお思いですか?自分自身がもはや社会にとって不適格者になってしまったとお考えですか?どうぞ神の力に頼ってください。それこそがまさにイエスが私達にすべきこととして伝えたことなのです。イエスは、神があるがままの私達を愛してくださる、という良い知らせを伝えてくださったのです。
あなたは、特定の人、場所あるいは癖などにこだわりがあり、それから逃れたいと思っていますか? 神はそれらから解放してくださいます。
あなたは、他人の苦しみについてわかっていても目を閉ざしがちですか? 新しい視野を持てるように神に祈ってください。イエスはそれを与えてくださいます。
あなたは、他者に虐げられていますか?あるいは忙しさとストレスで気持ちが落ち込んでいませんか?イエスはあなたを自由にするためにこの世に来て下さったのです。
誰でも、自分の心の中で起きている出来事を重ね合わせて、聖書を読むことができます。聖書をゆっくり、祈りとともに読んでみましょう。すると、きっと心のなかで小さくともピンとくるものがあるはずです。聖書は永遠の「現在形」で書かれており、今あなたに読まれるためにあるものです。