2007年4月1日 四旬節 枝の主日(C年)

今日の日曜日は、枝の主日と受難の主日という二つの名前を持っています。枝を持っての行列と祝福は、イエスが神であるという意味でのイエスの王権を示しています。一方、受難はイエスが私達人間とともに、人間として苦しんだことを示しています。イエスは100%神であるとともに、100%人間でもありました。この神秘をバランス良く理解することは重要なことです。

本日のルカによるイエスの受難 (ルカ23:1−49)では、イエスが無罪であったことが強調されています。ローマ総督ピラトとユダヤ王ヘロデにより、「良い盗人」により、そして百人隊長により、それぞれイエスは無罪であったとされています。

罪が無いにもかかわらず、私達を救い私達の間に平和をもたらすために、わが身を惜しみなく捧げられました。ガラテヤ人への手紙(ガラテヤ:2:20)でパウロは「 神の御子は、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた」と言っています。このように、イエスのご受難は私達一人ひとりに、現在も関わってくるものなのです。

遠藤周作はこれを次のように説明しています。「神の愛を実際に示すために、イエスご自身が最も恐ろしい形で死と出会わなければならなかった。イエスは私達に向き合いこう言うのです。「御覧なさい。私はあなたと同じ側にいるのです。あなたと同じような苦しみを受けました。私自身が自分のこととして経験しましたので、あなたの惨めさを私は充分理解します。」と。

ヘブライ人への手紙(ヘブル4:15−16)の中でも「イエスはわたしたちの弱さを思いやってくださる。すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だからわたしたちは、あわれみを受け、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるため、恵みの御座に近づこうではないか!」と書かれているのです。

あなたは助けを必要としていますか? 祈りの中で、イエスが受けた苦しみを想いおこしてみましょう。そして信頼をもってイエスに近づいていきましょう。

イエスの苦しみは私達に慰めを与え、イエスの復活は私達に希望を与えてくれます。