2007年7月15日 年間第15主日(C年)

聖書箇所:申命 30 ・ 10 ‐ 14
コロ1・ 15 - 20
ルカ 10 ・ 25 - 37

今日の福音のメッセージについて考えていたとき、私は昨年見たあるテレビ番組を思い出しました。ご覧になった方がいらっしゃるかもしれませんが、「夜回り先生・水谷修のメッセージ2 生きていてくれてありがとう」というタイトルの番組で、NHKで放送されたものです。「夜回り先生」水谷修さんのことは、みなさんも御存知のことと思います。青少年の非行、薬物依存、リストカット(自傷行為)などの問題に尽力し、繁華街の夜回りや、メールや電話で直接彼らの悩みや抱えている問題と向き合っている方です。

番組の中では、実際に水谷先生がかかってきた電話の応対をしている場面がいくつも放送されました。その中で非常に印象深かったのは、何人かのリストカットをする少女たちに水谷先生が言う言葉です。親との関係、学校での人間関係、進路の問題などで、心が破裂しそうになり、その結果リストカットをするようになってしまった彼女達に対して、水谷先生は「やさしさをくばってごらん」「ひとのためになにかしてごらん」と勧めるのです。

この言葉を聞いたとき、私は驚きました。リストカットをするほど苦しんでいる彼女達に対して酷な要求だと思いました。でも、他の場面での水谷先生の言葉を聞いて考えが変わりました。それは大体こんな感じの言葉でした。「矛盾かもしれないけど、子供たちに僕はあえて、やさしさくばってごらん。人のためになにかしてごらん、と言う、僕は人間捨ててないから。やっぱり、何かやってもらうと人は、「ありがとう」っていう。その一言がその子供たちの心を溶かし、開いてくれる。そこに賭けるしかない。人のためになることが心の強さにつながるんだ」

この言葉は今日の福音のメッセージと深く関わっていると思います。福音の中で、イエス様は、「隣人を自分のように愛しなさい」というときの「隣人」が一体だれのことなのか、と尋ねる律法学者に対して、「よきサマリア人」のたとえ話を語り、最後に「行って、あなたも同じようにしなさい」と命令なさっています。「同じようにしなさい」というのは、「サマリア人のように、弱い人、苦しんでいる人の隣人になって、その人を愛しなさい」

ということでしょう。イエス様の命令とはいえ、これを実行するのは、とても困難なことのように思えます。

なぜでしょうか。それは「愛する」ということを「自分を犠牲にする、自分を捨てる」という面でしか捉えていないからだと思います。人間は誰でも自分を大事にしたい、自分を守りたいと思うものですから、「自分を犠牲にすること」には抵抗を感じます。特に現代のように、多忙で余裕のない時代においてはなおさら、そのことは難しくなるでしょう。

しかし、「愛する」ことにはもう一つの面があります。それは、「私たちが自分を犠牲にして誰かを愛する時、神様から恵み、助け、報いをいただく」ということです。先程お話した水谷先生の言葉を思い出してみてください。自分の苦しい状態にもかかわらず、周囲にやさしさをくばる、人のために何かする。そうしていくことで閉じて冷え切ってしまった心が開かれ、強められていく、彼は言っていました。人間の目から見れば、これは矛盾したことです。でも、ここにこそ真理があるのではないかと私は思います。そして、この真理は、私たちの信仰の根幹に関わるものであると思うのです。なぜなら、自分の命をすべてのものへの愛のために捧げたイエス・キリストに神は復活という究極の恵みを与えられたということこそ、私たちが第一に信じていることだからです。

私たちが、神様を信頼し、勇気を持って、愛を実行することが出来ますように、このミサの中で共に祈りましょう。