2007年7月22日 年間第16主日(C年)

良きサマリア人のたとえ話は、祈りだけ(例:ユダヤ僧侶)では十分ではなく、隣人への愛の実行も必要である、ということでした。今日の聖書(ルカ10:29−42)に出てくるマルタとマリアの話は、隣人への愛の実行だけ(例:マルタ)でも十分でなく、祈りも必要であるということです。これら二つのたとえ話は対となってバランスするものです。
ヨハネ11章5節では「イエスはマルタとその妹マリア、そしてラザロを愛された。」とあるように、かれらはイエスの友人であり実際イエスは彼らを好きでした。友人としてイエスはマルタに優しく「マルタさん、マルタさん、あなたは仕事に追われ忙し過ぎます。」と言ったのです。(マルタの名前を2回呼んだのは、親しさの表れです。)
個人的に私は自分自身がマルタに似ているような気がして彼女に共感してしまいます。ですから、イエスの優しい諭しは私自身に向けられているものと思わずにいられません。そもそも現在の日本にいる私達すべてがマルタのようではありませんか? 私達が暮らしている社会の雰囲気がまさに忙しさに追われるものであるからこそ、今日の福音のマリアのようにイエスの足元に座りイエスの言葉に耳を傾ける必要があるのです。つまり、静かな環境の中で祈る機会が必要なのです。ここでいう祈りとは、特別な準備や祝福が必要なものではありません。ただ座ってイエスからの愛と友情を味わうだけで良いのです。
イエスは「私はあなたの名前を呼ぶ。私はあなたを友と呼ぶ。」と言ってくださる神なのです。この愛と友情こそが祈りの基礎となるものです。
今週、毎日3分間静かなお祈りをしてみてください。私のやりかたは、準備として部屋にロウソクを灯し、体の緊張をときほぐし(とりわけ固くしまったアゴの筋肉をほぐし)、リラックスします。そしてイエスが私の名前を呼ぶことをイメージします。わたしはイエスの私への友情を感じることができ、そしてイエスがあるがままの私を受け入れてくださることを感謝するのです(平穏な日の祈りもあれば、怒涛の日もあります)。
私はマルタが包丁と料理壺をわきに置き、マリア、ラザロとともに静かにイエスの話を聴く様子を想像することが好きです。 そしてその後マルタはもっと上手に料理できるようになっただろうと思うのです。