2007年8月26日 年間第21主日(C年)

神は私達を神の子供として、全くわけへだてなく例外なく愛してくださいます。神のその愛を、神によって教えてもらえる人もいます。そのように教えてもらえることは、大変な「特権」とも言えますが、ここで気をつけたいことは、そのように神の愛を知ってクリスチャンとなったとしても、別に神のエリートとなったわけではない、ということです。イエスはそのような考えを強く否定しています。聖書は神によるそのような「召しだし」や「選ばれた人々」という言葉を、独特な意味で使っています。私達は神によって、他の人々に奉仕するために、召しだされ、選ばれているのです。クリスチャンであるからといって、そうでない人々より優れているわけではありません。

私自身の経験談なのですが、クリスチャン人口が1%未満の日本に来てみて、神による召し出しのありがたさを改めて感じることができました。信仰は、わたくしの日常に味わいと意味づけを与え続けています。「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言ってくださる神がいるということは、私にとって素晴らしい支え・希望となっています。

ですので、信仰をお持ちのすべての人々に対して、私は聖書に基づいた次の取り組みを行なってみていただきたいと考えています。
(1)ご自身がいかに恵まれているかということをあらためて認識していただき、神にそれを気付かせていただいたことに感謝します。信仰は自ら勝ち得たものでなく、自分が神を信じていることは、全く神のおかげであることに気付くことが重要です。
(2)このことについて、神との親しい祈りの中で、神に感謝いたしましょう。
(3)この感謝を、他の人々とわかちあいましょう。やりかたは、状況に応じて様々です。他人への感謝、励まし、思慮深い優しさ、温かい笑顔、そして時として赦しなどです。
これが聖書でいう”狭き門をくぐる”ということで、謙虚な心で、自分自身の好むことがらを優先しないということです。自己中心的で傲慢な人々は、自分達が(クリスチャンであるので)エリートとして広い門をくぐる権利があると錯覚することがあるかもしれません。しかし、それは間違いなのです。