2007年9月16日 年間第24主日(C年)

私達は神の愛、憐れみ、慈しみ、優しさ、そして柔和を聖書で読んだり聴いたりします。しかし問題は、これらの意味を私達はしっかり心で捉えているでしょうか。そうするためには、特別な、静かな時間が必要です。というのも、心からこれらを理解することは、人間の努力と勉強だけでは不可能であり、神からの純粋な賜物であるからなのです。この賜物により、私達はまったく新しい人間になることができます。
イエスの時代のファリサイ人は神について極めて厳しい考えを持つ人々でした。神は、掟の神であり、掟を破る者は神に罰せられなければならないのです。イエスはそのような考え方に真っ向から反対しました。例えば、ルカ15章ではイエスは三つのたとえ話をしています。(1)見失った羊、(2)無くしたコイン、そして(3)放蕩息子の話です。
羊飼いは一匹のために99匹を置いて探しにいたのです!これは神にとっては、どんな人でも、一人ひとりとても貴重であり、愛している、ということです。
持っている10枚のコインのうち1枚をなくした主婦が、徹底的に探し、ようやくそれを見つけて大喜びする話は、神のイメージを語っています。私達の神は、大喜びする神なのです。厳しく罰する神ではなく、大喜びする神、そんな私達の神をイメージしてみましょう。
放蕩息子のたとえ話では、息子の罪よりも、父親の優しさ、慈悲、愛が描かれています。これこそが私達の神です。
昨日読んだ、素晴らしい一節をご紹介します。「いつくしみ、愛、そして憐れみは、神のうわべではなく、神そのもの、神の本質なのです。」私にとって、この一節は非常にさまざまな思いをかきたてるものでした。
皆さん、今週はゆっくりと祈りの心を持って、ルカ15章を読んでみましょう。そして静かに座って、神の私達への個人的な愛を味わってみましょう。