2007年12月9日 待降節第2主日(A年)

あなたは苦しみの淵に沈んでしまったことがありますか?人から抑圧されたり、いじめられたことは?見捨てられて一人ぼっちになってしまったこと、裏切られたこと、そして何もかも望みがなくなったように思えたことはありませんか?

もしそのような気持ちになったときには今日の聖書朗読にある、ローマ人への手紙とイザヤの預言を読んでみてください。たとえ過去の話であっても、聖書で語られる時には、私たちに慰めと励まし、そして希望を与えるのだ、と聖パウロはローマ人への手紙の中で言っています。事柄は過去のことでも、神は今日も同じように私たちに対してふるまっているのです。そういう意味で、聖書は「永遠の現在形」で書かれているのです。イザヤの預言をみてみましょう。イザヤ書の7〜12章まではイマニュエルの書とよばれています。イマニュエルはヘブライ語で「神は私たちと共にいる」という意味です。イザヤの時代、人々は苦しみに沈んでいました。シリア軍に抑圧され、同盟軍もなく、見捨てられたと感じていました。そして、彼らの神さえも、見捨ててしまったと思えたのです。なにもかも駄目なようでした。そのような時、イザヤは詩的なイメージを用いて、当時の民衆(そして現在の私たち)に対して、語りかけています。神を信じよ、神は私たちと共にいる(イマニュエル)、と。神は不可能に思えることすら行うことができます。天敵である狼と羊、獅子と牛が仲良く草を食むなどは不可能です。これは不可能なことを詩的に表現したもので、詩を読むのと同じように字句通りとるべきではなく、私たちはこの裏のメッセージを知らなくてはなりません。その意味は、神は私たちとともにいる、ということです。そして聖パウロは「私たちの傍らに神は立っておられるので、私たちは何を恐れる必要があるのでしょう」(ローマ8:31)と言っています。

私たちキリスト教徒は、人間となった神をイザヤの預言を究極的に実現したととらえています。とても深い意味で、イエスは私たち人間とともにいる神であるのです。なぜならば神ご自身が痛み、排斥されること、裏切られること、寂しさなど人間であることからくる苦しみをご経験されたからなのです。

この待降節に、聖書をひらき、キリストの受難の部分や、ルカによる福音書第15章(放蕩息子への父の愛)、あるいはヨハネによる福音書第15章(葡萄と枝、私はあなたを友と呼ぶ)、あるいはマタイによる福音書14章22節以降(ペテロの嘆き)などをよんでみてはいかがでしょうか。

希望を持ちましょう! 勇気を奮い立たせましょう!
あなたが今どのように感じていらっしゃっても、神はあなたと共にいるのです。