2008年1月27日 年間第3主日(A年) [宮内神学生]

聖書箇所:イザ8:23b~9:3

Ⅰコリ1:10~13、17

マタ4:23

今日の福音朗読では、イエスの福音宣教活動の始まりが語られています。始まりの場所はガリラヤであり、福音のメッセージは「神の国は近づいた」というものでありました。

マタイ福音書の著者は、ガリラヤで福音を述べ伝えるイエスこそ、700年以上前に預言者イザヤが預言した「大いなる光」であると理解して、イザヤの言葉を引用しています。

イザヤがこのことを預言した頃、イスラエルはアッシリア帝国の侵略に苦しめられていました。第一朗読で「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」と言われているのは、ガリラヤ地方を含む地域が、アッシリア帝国によって占領されたことを指しています。

そ の結果、ガリラヤ地方には外国の宗教や文化が入ってくるようになり、ガリラヤ地方は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。当時のイスラエル の人々にとって「異邦人」とは神の救いから除外されている人々を指す言葉でありましたから、「異邦人のガリラヤ」と言う呼び方はまさに辱めの言葉であった と言えるでしょう。

しかし、イザヤはそのようなまさに真っ暗闇の状態の中にいたガリラヤの人々が「大いなる光を見る」と預言したのです。ガリラヤの人々にとってイザヤのこの預言は、絶望の中にいる自分たちに救いが訪れるという希望をもたらすものであったに違いありません。

マタイ福音書の著者は、イザヤの書のこのような背景を知った上で、イエスがまさに「救いの訪れ」であり、「神から与えられた希望の光」であることを、イザヤの預言を引用することによって、私たちに伝えようとしたのです。

と ころで、私は今日の第一朗読を読んだ時に、ふとこんなことを思いました。「闇の中を歩む民は大いなる光を見た」とあるけれども、実は「闇の中にいるからこ そ、光を見ることができるのではないか」と。つまり、絶望的な苦しみの中にいた人々だからこそ、神からの光、希望の光を見ることができるのではないかと 思ったのです。

夜空の星を例にとって、考えてみましょう。どんなに天気が良くて空気が澄んでいても、新宿や渋谷などの人工的な光に溢れている場所では、あまり多くの星を見ることができません。

反対に、街灯も殆どないような、人口が少なく自然の多い地域に行くと、「空にはこんなにたくさん星があったのか」と思うほどのたくさんの星を見ることが出来ます。

星の数は変わっていないのに、星を見る場所の明るさ暗さで、見える星の数は変わっていく。人工的な光が少なければ少ないほど、見える星は多くなる。

そこまで考えたとき、「神からの光であるイエス」は、「大いなる光」と呼ばれているけれど、ひょっとしたら本当は、大都会では見られない小さな星の光のようなものなのではないかと思ったのです。

私たちは、しばしば光であるイエスを見ることよりも、自分を光輝かせることに気持ちが行ってしまって、自分を人工的な光で飾ろうとしてしまいます。つまり、「神からの光であるイエス」以外のものや人によって自分を光輝かせようとしてしまうのです。

今日の第二朗読でパウロが警告しているのも、イエスではないパウロやアポロやケファにつくことによって自分を輝かせようとすることに対してではないでしょうか。

何 がその人にとっての人工的な光であるかは、人それぞれだと思います。ある人にとっては、自分の能力を高めることによって輝こうとすることかもしれない。別 の人にとっては、自分の地位や名声や評判を高めて光ろうとすることかもしれない。また、他の人にとっては、経済的に、あるいは社会的に成功して光輝こうと することかもしれない。しかし、神からでる真の光を見るためには、自分を飾っている照明のスイッチをすべて切る必要があります。スイッチを入れたままで は、自分を飾っている光の眩しさのために、イエスの慎ましい真の光が見えないからです。スイッチを切ることは、「自分で輝こうとする」ことをやめ、光であ るイエスに照らされて輝くことなのです。言いかえれば、いったん私たちが2700年前のガリラヤの人たちと同様、「闇の中を歩む民」になることが、「大いなる光」を見るために必要であるということなのだと思います。

私たちが「大いなる光」であるイエスによって照らされるままに、神への道を歩んでいくことが出来ますように、このミサの中で御一緒に祈りましょう。