2008年2月3日 年間第4主日(A年)

今日の福音はイエスの山上の垂訓と真福八端です。これらは私達の人生の生き方で あるイエスの示された道を歩む上で必要な、心の持ち方を示しています。
以前私は「心の貧しい」ということの聖書的な深い意味を、結局は神の助け に全面的に頼ること、と説明いたしました。
今日は他の真福、「心の清い人々は幸いです。なぜなら、彼らは神を見るでしょう。」
についてお話します。ここでいう「心の清い」とはどういう意味でしょうか。
元のギリシア語では「清い」とは「カタロス」という言葉で、混ざり物のない 絶対的に純粋な、という意味です。例えば、私の机の上には二つの日本の文鎮が あります。ひとつは鉄と銅の合金で銀メッキがしてあります。もうひとつは 100%鉄でできています。合金のものは、きれいですが、「純粋」ではありませ ん。鉄製のものは「純粋」です。だからといって、これらの違いが実際どのような意 味をもつのでしょうか?
それと同じくらいこの真福はよく理解されていないと私は思います。単に、性的な 分野に限定して「清い」と思われているかのようです。この意味はもっと、もっと広 い意味があり、私達にとって挑戦的でありまた励ましてくれるものでもあります。
この意味はまず100%私達の心を神に捧げるという意味です。お祈りの時だけでな く、日曜日だけでなく、日常のいかなる時にも、イエスのようになろうとし、イエス とともにいることです。平日もクリスチャンでいる、ということでもあります。
もっとひらたく言えば、優しく思慮深く、人の考えを受け入れ、他人に寛容であり、 学業、家業、仕事など自分の務めにベストを尽くし、正直であること、などになりま す。
一言でいえば、100%キリストのような純粋な心、お金や世渡りや名声など世俗的な価 値に混ざらない純粋な心でいる、ということです。
これを実践するには私達は絶対に祈らなければなりません。神と繋がっていれば、 神の力により、私達は純粋(カタロス)であり続けることができるのです。そしてそ の時、私達は神を見ることができ、私達の日常においていつも神がともにいてくださる ことを実感できるのです。