2008年3月16日 受難の主日(A年)

今日は受難の主日、聖週間のはじめの日です。イエスの受難と、それが今日に生きる私達にとってどう意味するかを完全に理解するために、次の2点は非常に重要です。

ポイント①:イエスは真のそして唯一の神ですが、一時的にその神性をわきに置いて、真の、本当の人間になっていました。イエスは部分的に人間になっていたのではなく、 あなたや私と全く同じような人間であったのです。(今日の聖書朗読、パウロのフィリピの教会への手紙第2章6-11節にもそれは書かれています。) それゆえ、イエスが経験なさった苦しみは、本物だったのです。

ポイント②:これらすべての恐ろしい苦しみの裏にあるものは、私達一人一人への愛です。イエスの受難はイエスの愛の証明です。私達一人ひとりが、聖パウロ と共に「イエスは私を愛し、私のためにこの世にお生まれになった。」と言うことができるのです。今日の福音、マタイによる主イエス・キリストの受難(マタ イ27・11-54)を見てみましょう。イエスは、普通の人間と同じように、友人であったユダの裏切りを感じていました。イエスの心は切り刻まれているよ うでした。さらに、イエスが愛した人々は、嫉妬深い指導者に煽動されてイエスのかわりにバラバの釈放を要求しました。それはあまりにも不公平、不正、ひど いことでした。このような裏切りに私達が傷つくように、イエスも傷ついたのです。そして、兵士が革のムチでイエスを鞭打ち、王冠を模したイバラの冠をかぶ せてイエスをあざけり、いじめました。そしてイエスにツバをかけ、打ったのです。これらすべての苦しみの裏にあるのは、あなたと私への愛です。私達に平 和、命、そして癒しを与えてくれた愛、なのです。キレネ人のサイモンが十字架を運ぶイエスを助けました。同じように、人生の中で苦しみの十字架を運ぶ私達 をイエスは助けてくださいます。しかし苦しみの中で、イエスは私達と同じような人間的な空虚な思いも感じておられました。イエスは御父から御自身に与えら れた慰めを感じなかったのです。心の底から、イエスは「私の父、私の父、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫んだのです。これらすべての苦しみ がはっきりと示しているものは、イエスの愛、愛、愛、愛なのです。私達が苦しんでいる時こそ、イエスは私達と共にいます。イエスは私達が苦しんでいる時に 共に歩いてくださる(同伴者)のです。