2008年3月30日 復活節第2主日(A年)

 

今日は「神の慈しみの主日」と呼ばれる日です。この、「神の慈しみ」とは、いったい何でしょうか? 辞書の文言のようにこの言葉を解説しても、あまり意味がないでしょう。でも、イエスが示された、慈しみの完璧なお手本をみれば、だんだんわかるようになります。イエスが人々に示された愛を通して「神の慈しみ」を見ることができます。「慈しみ」はヘブライ語の「ケセ」の翻訳です。この言葉は、愛、約束された愛、慈しみ、思いやり、愛情深い優しさ、などと訳されています。ここで復活後イエスが示された慈しみ深い愛の例をみてみましょう。
イエスは泣いているマグダラのマリアに会うと、優しく「マリア」と声をかけました。失意にくれて故郷のエマオ村へ戻ろうとしていた二人の弟子に対して、イエスは優しく慰め、また教えを授けました。また、イエスは自分が決して幽霊ではないことを証明するために、わざと揚げた魚の切り身を食べてみせました。ペテロがイエスの弟子であることを否定したことをイエスは知っていましたが、そのことについて怒ろうとはせず、そのかわり「ペテロ、わたしを愛していますか?」と尋ねたのです。そして今日の福音では、イエスが生きていることを信じられないと言った弟子トマスが描かれています。復活されたイエスはそのトマスの前に再び現れますが、イエスはトマスのそのような疑いに理解を示し、怒ったりはしませんでした。ただ、優しく、思いやり・慈しみ・理解を示されただけでした。
聖書にでてくる、このように優しく、思いやり深いイエスは、この今現在も私たちと共に生きているのです。祈りを通して、聖書を通して、共同体を通して、聖体拝領を通して、わたしたちは同じイエスに出会うことができるのです。イエスは、人間の心の中にある、神の慈しみなのです。
信仰に対して疑いを持つことは、とても自然なことです。英国のニューマン司教は「疑いなき信仰は死んだも同然です。」と言っています。疑いをもつことこそが、わたしたちの信仰の意味について深く考えさせ、信仰を強めてくれるというのです。この意味で、疑いを持ったトマス、そしてその疑いを優しく受け止めたイエスは、私たちにとって希望を与えてくれます。慈しみにあふれたイエスは、今日、私たち一人一人に次のように言います。
「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」
イエスの慈しみを味わいましょう。