2008年4月13日 復活節第4主日(A年)宮内神学生

 

昨年に引き続きまして、世界召命祈願日に召命についてお話させていただくことになりました。昨年は、主に私が神学校に入るまでのことについてお話しましたので、今回は神学校に入ってからの歩みについて、特にこの一年の間に思ったこと、気付いたことを、みなさんと分かち合いたいと思います。

話に入る前に、まず一粒会の活動や、祈り、あるいは様々な形での助けや支えを通して、私を支えて下さっている保土ヶ谷教会共同体のみなさまに心からお礼を申し上げます。本当にいつもありがとうございます。自分でも不思議ですが、神学校に入って、時間が経てば経つ程、小教区の皆様の祈りと支えによって、自分の召命が生かされていることをよく感じるようになりました。どうぞ、これからもよろしくお願い致します。

さて、この春から私の神学校での5年目の生活が始まりました。東京カトリック神学院での養成は6年間ですから、もし順調に行けば、あと2年で卒業となります。そして、神学校での6年目は助祭として過ごすことになっているので、あと1年でもしかすると助祭叙階となるかもしれません。正直に申し上げると、「もうあとそれしかないのか!どうしよう?!」という思いです。

今思うと、神学校に入ってからの最初の3年間位は、「6年という神学校生活は長い、6年間養成を受ければ、自分も成長して、叙階にふさわしい者になれるだろう」という甘い考えを抱いておりました。同時に神学校という自分にとってまったく新しい環境に適応していくのに精一杯で、目の前のことにばかり目が行きがちになり、一番大事なことであるはずの「司祭召命」について、あまり深く考えていなかった気がしています。

そのような自分の意識に変化が訪れたのは、神学校の3年目が終わった去年の春休みでした。大阪のカテドラルで行われた神学校の先輩の司祭叙階式に参加した時のことです。目の前で司祭に叙階される先輩の姿を見てふと、「もしかしたら、自分も3年後にはこうなるかもしれないのだ」と初めて実感したのです。

そう思った途端、焦りと恐怖の入り混じった感情に襲われました。「どうしよう、あともう3年しかない!」と心の中で叫びました。それまで3年間の養成を受けてきたものの、自分が当初思い描いていたようには、成長していないと思ったからです。今までのペースで考えると、残り3年で自分が最初に考えていたような自分にはとてもなれないと思ったのです。

反面、気持ちがそれ以前よりも引き締まったのは確かだと思います。加えて、上級学年になって責任が大きくなったことも心に良い緊張感をもたらしてくれました。そして、何よりも司祭召命についてもう一度考え始めるきっかけになりました。「司祭職をめざして、自分はどういう準備をするか」「自分は横浜教区の司祭としてどのようでありたいのか」などと考えるようになったのです。もちろん、それまでの3年間にそのことを全く考えなかったわけではありません。しかし、実感をもって真面目に自分の司祭召命について考えたのはこのときが初めてだったと思います。神学校での生活にようやく慣れてきて、先のことを考える余裕が少し出来始めたことも助けになりました。

ところが、考え始めてみて、考えれば考えるほど、自分が頼りなく思えました。今思うと、自分は自分の中で「あれもこれも出来る理想の司祭像」を思い描いて、出来ないことばかりの弱い自分を嘆いていたのかもしれません。よく考えてみれば、「理想の司祭」は、イエス・キリストただお一人だけであり、他のどんな人もなることが出来ないはずなのですが、なかなかそのことを心に留めることが出来ませんでした。

今でも依然としてそのような傾向が自分の中にはあります。しかし、神様の導きと多くの方の助けによって、最近は少し召命への理解が変わってきたように感じています。「神様は、ありのままの弱い私を招いてくださっているのだ」と思い始めました。目指す司祭像についても、それまでは「あれもこれも出来る司祭」というイメージとは全く異なる、「ありのままの弱い自分を神様に使っていただく司祭」というイメージが自分の中に生まれてきました。つまるところ、自分の弱さ、足りなさとやっと向き合い始められたということなのかもしれません。

こういうわけですから、神学校生活5年目を向えて、ようやくスタートラインに立ったような気がしています。来年助祭叙階の恵みが与えられるように祈りながら、「司祭召命」の意味を自分なりに深めていきたいと思っています。どうぞお祈り下さい。