2008年4月27日 復活節第6主日(A年)

「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう準備していなさい。」(1ペテロ、3-15) キリスト教信者の希望とは何でしょう? わたしはある女性を思い出します。いまは故人となられたその方は、車椅子で痛みを堪える毎日でしたが、人に会う時には微笑みを絶やしませんでした。彼女に会っておしゃべりをすると、わたしはいつも心あたたまる思いをしたものでした。ある日、わたしは直接彼女に尋ねました。「爽子(さやこ)さん、なぜあなたはいつもそんなに楽しそうなのですか?」 彼女の答えは、一生忘れがたいものでした。 「イエス様が共にいてくださると信じています。私達はともに毎日を過ごしているのです。」 これこそが、真に実在する希望なのです。
キリスト教信者の希望は、その基盤として、「神はあるがままの私を愛してくださる」という教えにあります。神は私が善人だから愛してくださるのではなく、あるがままの弱い私を愛してくださいます。神様が私をおつくりになったからです。

さらに、大衆の中の一人として愛してくださるのではなく、私個人を特別に愛してくださるのです。「神は私を名前で呼ぶ。神の目には私は値高く、神は私を愛してくださる。」(イザヤ43)。

今、私達は人生の旅路において希望をもっています。しかしこの希望は私達の旅の目的地が明確に理解できれば、さらに強まります。その素晴らしい目的地とは、神との完全な一致、すなわち「天国」です。

聖書はまるごとすべて神が人間をどのように扱ってきたかという歴史です。この歴史は続いていて、現代の歴史の中にも神は生き続けています。このことで私達は希望を持つことができます。
希望は、まったく神からの贈り物であり、私達が作り出すことはできません。それを乞い願いましょう。そしてこの贈り物を他の人たちと分かち合いましょう。機会があればペトロが言ったように神はありのままの私達一人ひとりを愛してくださるから、私達には希望があるということを人々に伝えましょう。
もしあなたが何かに苦しんでいたり、何もかも絶望的に思えたとき、詩篇22章を読むことをおすすめします。1-18節で詩篇の書き手は自分自身の苦しみを神にぶつけています。そして19-31節で希望が訪れ、他の人々に神による救いを述べ伝えるようになるのです。