2008年7月6日 第14主日

今日も聖書を通して、
「疲れた者、重荷をになって苦しむ者、わたしのところへ来なさい。休ませてあげよう。」と、
イエスは生きている声で私達に呼びかけています。
これは、イエスご自身からの、私達への「祈り」の招待です。 それでは「祈り」とは何でしょうか?
簡単に言えば祈りとは親しい友人同士の会話です。イエスは「あなたは私の友である」とおっしゃいました。
聖オーガスチンは友人としてのイエスを、「私のことをすべてわかっていてくださっていて、それでもあるがままの私をうけいれてくださる方」と表現しています。イエスはこの「友人」という言葉を使うとき、聖書でどのように使われていたかを熟知したうえで使っています。聖書にあらわれる「友人」をみてみると、シラ書6-14では、
「信義に厚い友人は安心できる避難場所、そのような場所をひとつでも持っているものはまたとない宝を得たも同然」
「信義に厚い友人は値がつかないほど貴重であり、その友情の価値ははかりしれない」
「信義に厚い友人は命をあたえてくれる薬。神を崇める者はそのような友人を持つ」
米ミシガン州サギノー司教であったケン・アンティーナ司教(2004年没)は、「小さな本」(白本、青本、黒本)と名付けた本を書きました。その本では、短い聖書の一節が掲げられ、読み手はその内容について6分間イエスと話しあってみるよう促されています。(祈りの中で「話す」とは、静かな環境で、自分自身の言葉を使って、友人であるイエスに、お互いの存在を味あうことをいいます。) 6分間の祈りをやってみましょう。
現在の忙しい世の中では、私達はみな疲れ果て、私達はみなそれぞれの種類の心の重荷をせおっているのです。あるがままの姿で、イエスのところへ行ってみましょう。私達はイエスから招かれているのです。イエスは「休息」と「安らぎ」を約束してくださいました。
私達はまた、毎日ひっぱるべき重い「人生のクビキ」を首にかけられています。これを、自分自身だけがひっぱるものでなく、イエスとともに引っ張る二頭立てのものにしましょう。そうすることにより、とても軽く、容易にひっぱることができるようになるのです。